デカルトの絶望に関する記述は、キルケゴールのそれに比べればやはり単純で、それは6つの基本感情のひとつ、欲望、に関連付けられ、引用すると以下のとおりである。
「ある善の獲得、ある悪の回避が可能だと考えただけで、その欲望がそそられる。が、さらに、欲望するものを獲得する見込みが多いか少ないかが考慮されると、見込みが多いと示すものは、わたしたちのうちに希望を引き起こし、見込みがわずかであると示すものは、不安を引き起こす。執着は不安の一種である。
希望は、極度に大きいと性質を変えて、安心または確信と呼ばれる。
反対に、極度の不安は絶望となる。―」
(『情念論』第二部58節 希望、不安、執着、安心、絶望。)
「希望と不安の情念のうち、一方が欲望をともなうと、必ず他方の情念にもいくらかの余地を残す。たしかに、希望がとても強くて不安を追いのけてしまうと、希望はその性質を変えて、安心または確信とよばれるものになる。そして欲するものの到来を確信すると、それが到来するよう意志しつづけるにしても、心配してその結末を求めさせていた欲望の情念にもはや動かされなくなる。
まったく同様に、不安が極度になって希望の余地がすべて奪われると、それは絶望に変わる。この絶望は、ことの不可能をあらわすから、可能なことのみに向かう欲望をまったく消滅させてしまう。―」
(『情念論』第三部166節 安心と絶望について。)
このように、絶望は基本感情の欲望に善悪と、自由の前提たる可能性、の要因が加わり、さらにそれに思慮思惟が加えられ、不安や執着を推移することによって生まれる特殊感情なのであるが、
キルケゴールは、これに更に有と無、無垢や原罪の要因を加え、不安の段階からさらに深く深く掘り下げる。
キルケゴールが発見した、死に至る病・絶望、に先立つ不安、の更なる根本とは、
無、
である。
これはデカルトが不安の一種とした執着…執心、と共に無を語る、仏教の教義とも重なる。
絶望や不安は時として、一人の人間の人生における最大の難敵であり、それどころか、その人を殺すものですら、有り得るが、それほどに危険であるがゆえにこそ、
無、 という限りなく接触困難なひとつの究極の真理真実への道標ともなり得る、別格も別格の感情・情念で在り得るのである。
この絶望の問題は、デカルトの解答で満足できないのならば、本来的に命懸けの問いであり、そこにあえて乗り込んだ、その各自の運命や宿命において乗り込まないわけにはいかなかった、キルケゴールや、ニーチェにはそれ相応の敬意を払う必要がある。
デカルトによれば、敬意もまた、情念のひとつであるが、件の絶望や不安同様に、認識や理知はそうした情念に支えられるものでもあるのである。
「ある善の獲得、ある悪の回避が可能だと考えただけで、その欲望がそそられる。が、さらに、欲望するものを獲得する見込みが多いか少ないかが考慮されると、見込みが多いと示すものは、わたしたちのうちに希望を引き起こし、見込みがわずかであると示すものは、不安を引き起こす。執着は不安の一種である。
希望は、極度に大きいと性質を変えて、安心または確信と呼ばれる。
反対に、極度の不安は絶望となる。―」
(『情念論』第二部58節 希望、不安、執着、安心、絶望。)
「希望と不安の情念のうち、一方が欲望をともなうと、必ず他方の情念にもいくらかの余地を残す。たしかに、希望がとても強くて不安を追いのけてしまうと、希望はその性質を変えて、安心または確信とよばれるものになる。そして欲するものの到来を確信すると、それが到来するよう意志しつづけるにしても、心配してその結末を求めさせていた欲望の情念にもはや動かされなくなる。
まったく同様に、不安が極度になって希望の余地がすべて奪われると、それは絶望に変わる。この絶望は、ことの不可能をあらわすから、可能なことのみに向かう欲望をまったく消滅させてしまう。―」
(『情念論』第三部166節 安心と絶望について。)
このように、絶望は基本感情の欲望に善悪と、自由の前提たる可能性、の要因が加わり、さらにそれに思慮思惟が加えられ、不安や執着を推移することによって生まれる特殊感情なのであるが、
キルケゴールは、これに更に有と無、無垢や原罪の要因を加え、不安の段階からさらに深く深く掘り下げる。
キルケゴールが発見した、死に至る病・絶望、に先立つ不安、の更なる根本とは、
無、
である。
これはデカルトが不安の一種とした執着…執心、と共に無を語る、仏教の教義とも重なる。
絶望や不安は時として、一人の人間の人生における最大の難敵であり、それどころか、その人を殺すものですら、有り得るが、それほどに危険であるがゆえにこそ、
無、 という限りなく接触困難なひとつの究極の真理真実への道標ともなり得る、別格も別格の感情・情念で在り得るのである。
この絶望の問題は、デカルトの解答で満足できないのならば、本来的に命懸けの問いであり、そこにあえて乗り込んだ、その各自の運命や宿命において乗り込まないわけにはいかなかった、キルケゴールや、ニーチェにはそれ相応の敬意を払う必要がある。
デカルトによれば、敬意もまた、情念のひとつであるが、件の絶望や不安同様に、認識や理知はそうした情念に支えられるものでもあるのである。
コメント
No.3
(2015/05/11 18:01)
個人的にはやけど、「ほんとうになんもない」という「無」は、「歪みない直線」とか「カド一つ無い円(まる)」とかと同じようなもんで、現実にはないけど、数学とか人々のイメージの中にのみ存在するものと捉えていたのぜ。
高校の倫理の授業で習った、「イデア」みたいなもんの一種かと思っていたのぜ。
で、関係ないかもやけど、宇宙の始まりとかは、「ほんとうになんもない」という「無」でなくて、「なんかがあったらしい」と聞いたのぜ。
もいっこ倫理で習った話を思い出した。老荘思想を!
老子の「道(タオ)」は、「なんにもない」という概念に近かったかもなのぜ。ただ、「ほんとうになんもない」の「無」と違って、そいつは「有(あるもの)」を生み出す元となるらしいのぜ。そして、「有るもの」が「有るもの」たるのは、その生みの親である「なんもない=道(タオ)」が始めにあってこそ、ということを言ってたと思うのぜ。
老子... 全文表示
高校の倫理の授業で習った、「イデア」みたいなもんの一種かと思っていたのぜ。
で、関係ないかもやけど、宇宙の始まりとかは、「ほんとうになんもない」という「無」でなくて、「なんかがあったらしい」と聞いたのぜ。
もいっこ倫理で習った話を思い出した。老荘思想を!
老子の「道(タオ)」は、「なんにもない」という概念に近かったかもなのぜ。ただ、「ほんとうになんもない」の「無」と違って、そいつは「有(あるもの)」を生み出す元となるらしいのぜ。そして、「有るもの」が「有るもの」たるのは、その生みの親である「なんもない=道(タオ)」が始めにあってこそ、ということを言ってたと思うのぜ。
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No.4
(2015/05/11 19:51)
とまと船さんコメありがとうございます。
有と無はまとめて言えば、存在、でそこにおいて有と無は分立して
いるのですが、
イデア・・・すなわち、本質、はその有と無の純粋な関係性、であり、
その存在と本質をさらにまとめたものが、概念、となり、
そこにおいて、有と無は合一される「有」かもしくは「無」となります。
キルケゴールの無、と括弧を外してますがこれは正確には括弧つきの
「無」すなわち「有」で、
とまと船さんの言う「ほんとになにもない」「無」は正確には括弧を
外した無、で、「なんかがあったらしい」無、は「無」ですねw
こうした「有」「無」が次回で書いた定有、というわけです。
こう書くとややこしいですが、有限と無限の問題で躓きさえしなけ
ればこのへんの話はすんなり行く話で、そもそも無限者にして真実在
たる神の話たる神話は文学の形式もとりつつも例外なくそうした存在
や本質・概念を扱ってるんですよね。
中国思想は基本的に神無き存在論なので、混沌(カオス)の話にな
るわけですが、無に何か(目・耳・鼻・口)を加えたらもうそれは
もう無ではない、というのはまさしくその通りです。
自分も心情的には神話万歳なのぜ。無神論永劫回帰はもうお腹いっぱいなのぜ!
ですw
有と無はまとめて言えば、存在、でそこにおいて有と無は分立して
いるのですが、
イデア・・・すなわち、本質、はその有と無の純粋な関係性、であり、
その存在と本質をさらにまとめたものが、概念、となり、
そこにおいて、有と無は合一される「有」かもしくは「無」となります。
キルケゴールの無、と括弧を外してますがこれは正確には括弧つきの
「無」すなわち「有」で、
とまと船さんの言う「ほんとになにもない」「無」は正確には括弧を
外した無、で、「なんかがあったらしい」無、は「無」ですねw
こうした「有」「無」が次回で書いた定有、というわけです。
こう書くとややこしいですが、有限と無限の問題で躓きさえしなけ
ればこのへんの話はすんなり行く話で、そもそも無限者にして真実在
たる神の話たる神話は文学の形式もとりつつも例外なくそうした存在
や本質・概念を扱ってるんですよね。
中国思想は基本的に神無き存在論なので、混沌(カオス)の話にな
るわけですが、無に何か(目・耳・鼻・口)を加えたらもうそれは
もう無ではない、というのはまさしくその通りです。
自分も心情的には神話万歳なのぜ。無神論永劫回帰はもうお腹いっぱいなのぜ!
ですw
No.5
(2015/05/11 21:14)
リウキさん、返信ありがとなのぜ!
ワイはどうも、イデアの解釈を間違えていたかもしれんぜ。高校の倫理の先生がすごく面白い話をしてくれる人で、たとえ話として真の円や三角の話をしたので、そういうもんかと捉えてたのぜ。
でも、もうちょっと深そうですな・・・。
中国は、哲学的には、儒家が出てきて、それに反論するような立場の道家(老子:架空の人物かも?)が出てきて道(タオ)のような混沌を出したりして面白そうですね。某隣国の李朝では、儒家から派生した朱子学が建国の理念だったみたいですね。
神話としては、三皇五帝の伝説などがあり、孔子の話の中に「鬼神」やらその「祭祀」やらといったワードも出ていた気がするし、その前には原始的な多神教があったのかもしれませんね(ここ、詳しくないです・・・スマセン)。
道家が出たあと、道=老子=大上老君と神格化した多神教の道教も出てきて、キョンシーもここから出たんでしたっけw
懐かしいなあ・・・「来来キョンシーズ」とかいうキョンシー同士のバトルドラマ(昭和感)w
ワイはどうも、イデアの解釈を間違えていたかもしれんぜ。高校の倫理の先生がすごく面白い話をしてくれる人で、たとえ話として真の円や三角の話をしたので、そういうもんかと捉えてたのぜ。
でも、もうちょっと深そうですな・・・。
中国は、哲学的には、儒家が出てきて、それに反論するような立場の道家(老子:架空の人物かも?)が出てきて道(タオ)のような混沌を出したりして面白そうですね。某隣国の李朝では、儒家から派生した朱子学が建国の理念だったみたいですね。
神話としては、三皇五帝の伝説などがあり、孔子の話の中に「鬼神」やらその「祭祀」やらといったワードも出ていた気がするし、その前には原始的な多神教があったのかもしれませんね(ここ、詳しくないです・・・スマセン)。
道家が出たあと、道=老子=大上老君と神格化した多神教の道教も出てきて、キョンシーもここから出たんでしたっけw
懐かしいなあ・・・「来来キョンシーズ」とかいうキョンシー同士のバトルドラマ(昭和感)w
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今度の話は、専門用語が多く、たぶん的外れな回答しかできません、先に謝ります。
おっしゃる通り、死は絶望だと思います。
生物、生き物 生きているものにとって
その終焉です。
だからといって、死に震えて、人は生きるしかないんでしょうか?
いいえ、希望はあります。
私たちは生き物です。
絶望以上に、
死、以上に
生きることに
希望に価値を見出せばいい
それだけです。
人間、結果を残すために生きてるわけではない、が持論です。
結果は、あとから付いてくるものって、よく言うじゃないですか。
そう、結果に至るその
過程
どれだけ本気で、真剣に
生きられるか
それが希望なんです。
本気で生きてるとき、人間は本当に
夢中になれるから幸せですよ。
それで、いいじゃないですか。
どうせ死ぬんなら、それまでは精いっぱい幸せなら。
生きてる間はプラス続きな人生です... 全文表示