さて、ここで虚無と絶望との関係について整理してみよう。
先に、ニーチェの虚無とキルケゴールの絶望は同じもの、と書いたが、その核心に触れる前に、あの『魔法少女まどか☆マギカ』との関連の意味も含めて、まずはデカルトの感情論・情念論における絶望を見てみたい。
まず、『まどか☆マギカ』の『佐倉杏子』というキャラクターは、前回語った、虚無主義の前段階としての、
ドグマティズム(独断主義)→スケプティズム(懐疑主義)→エゴイズム(独我主義)
となって、更に、ややエゴティシズム(利己主義)に傾く推移の典型、を擬人化したようなキャラクターであった。
弱肉強食、というそもそも動物の本能の原則であるものを行動原理に据えるのも、実は人間としての行動原理を失い、虚無に傾いているというひとつの証左ではあるのだが、まずここで見るべきは魔法少女を魔女と化すという絶望、である。
デカルトはその晩年、その自我論の集大成として、「情念論」という著作を成しており、その身体論、とりわけ、脳を扱った箇所における『松果体』の記述が後々の解剖学者や大脳生理学者を中心とした、科学者の批判を招いてしまってはいるが、
先に元素と原子の話でもみたとおり、そもそもその解剖学を基とする科学と、デカルトが「情念論」の基礎にした、自然哲学を基とする身体論は全く別なものであることには、くれぐれも気を付けなくてはならないだろう。
デカルトも解剖学に基づく用語と一見思える言葉を用いてはいるが、その実、情念論における身体論で扱っているのは元素(ストイケイア)や、生命概念から導かれる精気、などといった自然哲学概念であり、それを踏まえれば、『松果体』もまた、脳を解剖すれば観察できるようなものでもないことがわかる。
デカルトは自我の延長として身体意識を徹底して思索し、そこから情念・・・感情の湧き出す根源を突き止めたのである。
そこにおいてデカルトは、諸感情の体系付けとして、まず感情を、
6つの基本感情、
驚き、愛・憎しみ、欲望、喜び・悲しみ、
とし、それらの複合、あるいは種、としての、以下の特殊感情、
重視と軽視・高邁と高慢・謙虚と卑屈・崇敬と軽蔑、
希望・不安・執着・安心・絶望・不決断・勇気・大胆・競争心・臆病・恐怖・悔恨、
嘲り・羨み・憐み・内的自己満足・好意・感謝・憤慨・怒り・誇り・恥・嫌気・心残り
・爽快、
・・・とに分け、それらの枚挙を論じ詰める。
それらの諸論はこの上なく意義深いのだが、ここで問題となっているのは、そのひとつ、基本感情の欲望と、その混合発展派生としての、絶望、である。
それはキルケゴールが絶望に先立って提示した、「不安の概念」の不安、ともセットになっており、そして、「まどか☆マギカ」において、絶望は、少女の極限の感情にして、魔女と化す、感情すなわち情念の停止、虚無として描かれていた。
あの宗教改革に失敗した聖職者の娘の佐倉杏子は、その経緯から虚無(=絶望)の手前の利己主義に踏みとどまり、絶望とは(まどかの希望と共に)対になる感情である、欲望、をもその存在基盤にしていたわけだが、
彼女の鏡ともいうべき恋する少女、美樹さやか、との関わりにおいて、その忌むべき父の、信仰、の問題が浮上してくるところは、キルケゴールと重なる。
先述のとおり、信心の問題をその哲学から慎重に排除したのはデカルトだったが、更にそれを飛躍させた、ヘーゲルの論理性の極致としての弁証法を忌み嫌ったキルケゴールは、自身を躊躇いなく「偶像崇拝者」と呼ぶ。そして佐倉杏子同様に、ドグマティズムの盲信とスケプティシズムの懐疑の狭間に苦悩し、揺れつつも、信仰を求めずにはおれなかった哲人であった。
ゆえにこそ、彼において絶望と虚無は、デカルトの感情、情念論を受けて、その前提として「不安の概念」を置きつつも、それを超えた、信心の問題としても展開していったのである。
先に、ニーチェの虚無とキルケゴールの絶望は同じもの、と書いたが、その核心に触れる前に、あの『魔法少女まどか☆マギカ』との関連の意味も含めて、まずはデカルトの感情論・情念論における絶望を見てみたい。
まず、『まどか☆マギカ』の『佐倉杏子』というキャラクターは、前回語った、虚無主義の前段階としての、
ドグマティズム(独断主義)→スケプティズム(懐疑主義)→エゴイズム(独我主義)
となって、更に、ややエゴティシズム(利己主義)に傾く推移の典型、を擬人化したようなキャラクターであった。
弱肉強食、というそもそも動物の本能の原則であるものを行動原理に据えるのも、実は人間としての行動原理を失い、虚無に傾いているというひとつの証左ではあるのだが、まずここで見るべきは魔法少女を魔女と化すという絶望、である。
デカルトはその晩年、その自我論の集大成として、「情念論」という著作を成しており、その身体論、とりわけ、脳を扱った箇所における『松果体』の記述が後々の解剖学者や大脳生理学者を中心とした、科学者の批判を招いてしまってはいるが、
先に元素と原子の話でもみたとおり、そもそもその解剖学を基とする科学と、デカルトが「情念論」の基礎にした、自然哲学を基とする身体論は全く別なものであることには、くれぐれも気を付けなくてはならないだろう。
デカルトも解剖学に基づく用語と一見思える言葉を用いてはいるが、その実、情念論における身体論で扱っているのは元素(ストイケイア)や、生命概念から導かれる精気、などといった自然哲学概念であり、それを踏まえれば、『松果体』もまた、脳を解剖すれば観察できるようなものでもないことがわかる。
デカルトは自我の延長として身体意識を徹底して思索し、そこから情念・・・感情の湧き出す根源を突き止めたのである。
そこにおいてデカルトは、諸感情の体系付けとして、まず感情を、
6つの基本感情、
驚き、愛・憎しみ、欲望、喜び・悲しみ、
とし、それらの複合、あるいは種、としての、以下の特殊感情、
重視と軽視・高邁と高慢・謙虚と卑屈・崇敬と軽蔑、
希望・不安・執着・安心・絶望・不決断・勇気・大胆・競争心・臆病・恐怖・悔恨、
嘲り・羨み・憐み・内的自己満足・好意・感謝・憤慨・怒り・誇り・恥・嫌気・心残り
・爽快、
・・・とに分け、それらの枚挙を論じ詰める。
それらの諸論はこの上なく意義深いのだが、ここで問題となっているのは、そのひとつ、基本感情の欲望と、その混合発展派生としての、絶望、である。
それはキルケゴールが絶望に先立って提示した、「不安の概念」の不安、ともセットになっており、そして、「まどか☆マギカ」において、絶望は、少女の極限の感情にして、魔女と化す、感情すなわち情念の停止、虚無として描かれていた。
あの宗教改革に失敗した聖職者の娘の佐倉杏子は、その経緯から虚無(=絶望)の手前の利己主義に踏みとどまり、絶望とは(まどかの希望と共に)対になる感情である、欲望、をもその存在基盤にしていたわけだが、
彼女の鏡ともいうべき恋する少女、美樹さやか、との関わりにおいて、その忌むべき父の、信仰、の問題が浮上してくるところは、キルケゴールと重なる。
先述のとおり、信心の問題をその哲学から慎重に排除したのはデカルトだったが、更にそれを飛躍させた、ヘーゲルの論理性の極致としての弁証法を忌み嫌ったキルケゴールは、自身を躊躇いなく「偶像崇拝者」と呼ぶ。そして佐倉杏子同様に、ドグマティズムの盲信とスケプティシズムの懐疑の狭間に苦悩し、揺れつつも、信仰を求めずにはおれなかった哲人であった。
ゆえにこそ、彼において絶望と虚無は、デカルトの感情、情念論を受けて、その前提として「不安の概念」を置きつつも、それを超えた、信心の問題としても展開していったのである。
コメント

No.1
(2015/05/09 17:24)

No.2
(2015/05/09 22:25)
人は人それぞれ皆違うのに、いい作品がどうして皆違う人に通じ
共感できるか、は本当に不思議ですね。
不思議だからこそここのデカルトをはじめ、全ての哲学者たち
は考え、デカルトの場合は自分の身体から万人に共通する普遍の
情念、というものを見出したわけですが・・
情念が未だ現象に近い理念であり、主としてそうした理念を
追う哲人・哲学者に対し、詩人も含めた文学者は皆で見る夢や
感動を直接に追い、心と心の交流に導くものですが、「詩人」
とか「文学者」という言葉を限定しすぎて自身がすでに詩人や
文学者であることを自覚されてない方は多いですね。
実のところ、哲学はなにか特別なことを言ってるわけではな
くほんのちょっぴりそうした自覚を促すようなものなのは仰る
とおりなので、自分もどうしてこんなことをわざわざするのか
疑問に思ったりもするのですが、今のところは、自分に哲学の
素晴らしさ面白さを教えてくれたある一人の物書きさんへの
追憶と、あとは既にこの日本で過ぎ去りつつも、未だわずかに
はびこる「絶望」「虚無」の後始末の意味も込めて、このブロ
マガはあと少し続けてみようかと思ってます。
共感できるか、は本当に不思議ですね。
不思議だからこそここのデカルトをはじめ、全ての哲学者たち
は考え、デカルトの場合は自分の身体から万人に共通する普遍の
情念、というものを見出したわけですが・・
情念が未だ現象に近い理念であり、主としてそうした理念を
追う哲人・哲学者に対し、詩人も含めた文学者は皆で見る夢や
感動を直接に追い、心と心の交流に導くものですが、「詩人」
とか「文学者」という言葉を限定しすぎて自身がすでに詩人や
文学者であることを自覚されてない方は多いですね。
実のところ、哲学はなにか特別なことを言ってるわけではな
くほんのちょっぴりそうした自覚を促すようなものなのは仰る
とおりなので、自分もどうしてこんなことをわざわざするのか
疑問に思ったりもするのですが、今のところは、自分に哲学の
素晴らしさ面白さを教えてくれたある一人の物書きさんへの
追憶と、あとは既にこの日本で過ぎ去りつつも、未だわずかに
はびこる「絶望」「虚無」の後始末の意味も込めて、このブロ
マガはあと少し続けてみようかと思ってます。
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まず、先に謝らせてください。あなた様の記事の内容に対して、
たぶんこれは回答ではなく、的外れな話です。
しかし、あなたも私もマドマギが好き この話で、話題をひとつ。
基本的に世界で名作と評され、中身があり、味わい深いもの、すべては
製作者さんは
哲学やってるか、それに近い思考
もっとすごい人は、悟ってると思います。
理由を書きます。
名作は、私たちの心にふれ、感情を揺さぶります。
さて、そんなことがなんでできるんでしょう?
見ず知らずのいろんな世界の大多数に、共感できる内容を提供するなんて。
私の持論です。
哲学に詳しい、人の心がわかるからです。
だから、私たちの心に直接届くんです。
私は、結局人は
心と心の触れ合い、
理解し合うことが
一番か2番くらいに楽しいし幸せだとも、感じてます。
哲学少しでもかじってれば
相手を思いやって、どうしたら、共感してもらえるか、楽しんでもらえるか
それくらいなら数分で理解できます。
あとは、個人の個性で味付けして、相手にキャッチボールを投げるだけです。
長々と、失礼しました。
次の作品の準備をするため、いったんここまでにします。