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哲学随想を試しに書いてみる。35

2015/03/02 12:14 投稿

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よって、懐疑主義から虚無主義への推移を見た場合、ある意味デカルトの自我論はひとつのリミッターと言える。

 先立つドグマティズムの、信念の頽落としての狂信や盲信が深いほど、その反動としての懐疑主義の懐疑も強くなるわけだが、その懐疑でも疑いえないのが、
「我、思う。ゆえに、我あり。」
 の、我(エゴ)であり、
 かくして、独我主義(エゴイズム)が見出される次第になるわけである。

 エゴイズムにもまた、それへの拘泥の過剰による頽落として、
 エゴティシズム(自己本位主義・自己中心主義・利己主義)などがあるものの、これは近代社会の単位である近代的自我・個人の大前提となるものでもある。

 これを前提に近代法概念や経済学も成り立っており、その恩恵もまた、測り知れない近代的思考の土台も土台といえるものでもあるのだが、


 しかし、虚無主義においては、そんな自我という土台・懐疑のリミッターすらも除かれてしまう。
 その象徴的な結実が、ニーチェの発狂・・・自我の崩壊、である。

 ニーチェの悲劇は虚無主義を超え得る者として、超人、を概念として予見し予言はしたものの、彼自身は虚無を超えることをできず、超人になることが出来なかったことにある。
 彼の後継筋にあたるバタイユなどはここまで言うに至る。

「自分のことを「私」という神、いったいこれは何なんだ!」


 ・・・
 エゴへの執心、利己主義や自己中心主義・エゴティシズムもこうした自我崩壊とセットの虚無=絶望に比べればまだ可愛げのあるものである。
 ぞっとしない話ではあるのだが、自我を無くした人たち、というのは先に語った終わりのない「行きっぱなしの観念」を抱きつつどこかの病院の一室に静かに佇んでいたりする。自我がない以上、彼らには(世界も含めた)他者は何の意味も持たないのである。

 逆に、もはや持ちえないエゴをそれでも望むニヒルであった場合、それは(そうした精神にはもはや時間の流れもまた意味を持ちえない)その都度その都度に都合のいい神をでっちあげ、あやしげな用語・術語を繰り返し繰り返し定義し、一見、他人にはもっともらしく聞こえる空疎な持論を果てしなく展開しつづける、人を惑わすまやかしの妖術師・魔術師のような存在と成り果てる。

 ニーチェはそれでも、それを積極的ニヒリスト、として肯定しようとしたわけだが、それも前者の消極的ニヒリストに比して、いくらやかましかったとしても、絶望者であるに過ぎないことには変わりがないし、肝心の超人への道はいまだ遠い。

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