品陀リウキのブロマガ

哲学随想を試しに書いてみる。34

2015/02/23 22:52 投稿

コメント:2

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ある人がある思想を抱く、というのは運命や宿命に属することであり、押しなべて思想というのはそういうものではあるのだが、しかし、念を押すと、絶望と虚無の場合は決してそうした特定の人が陥る、といったたぐいの事柄ではない。
 深淵への穴は誰にでも開いており、誰もがそこに陥る可能性がある。

 それは、以前に語った信心と思考思惟を巡る歴史的経緯に根差す、近現代という時代環境(『歴史は第二の自然である。』ー小林秀雄)ゆえであり、だから、以下に語る絶望と虚無についての歴史事象は我々の内面の話でもある。


 そもそもの始まりは、自我の哲人・デカルトも用心深く避けた、「信心」すなわち、信じること、の問題である。

 先に見たように、精神は信じることによって有と無という、本来、論理では決してあい交わらない存在間をまさしく、奇跡のごとく飛躍するのだが、正しい信仰を持たなければ信心・信仰には軽信・盲信・迷信・狂信といった頽落に陥る危険があった。
 そうした頽落はドグマティズム(独断・教条主義)として総括することができるのだが、社会現象的にそうした頽落への反省と批判から懐疑主義(スケプティシズム)が支持されるようになる、という段階は洋の東西を問わず、宗教史には必ずある。

 つまり、過剰な信仰に対し、懐疑・・・疑うことで抵抗・反抗し精神の平衡を取ろうとしたわけで、それが更にはあらゆる宗教改革に繋がっていくわけである。
 ルターの宗教改革はもとより、ユダヤの妬みの神ヤーヴェを新たな契約(新約)により、愛の神エホヴァとしたイエス・キリストもそうなら今、騒動になっているイスラムの怒りの神アラーとしたムハンマドもそうだし、ヒンズー教、バラモン教から仏教を見出した仏陀ガウタマ・シッダールタもそうだった。
 我が国ならば、鎌倉期の大乗仏教改革がそれにあたる。

 だが、以上のものはまことにまことに稀有な成功例であり、その失敗と言える、平衡を通り越した懐疑の行き過ぎ、すなわち、懐疑、疑うこと自体への盲信・狂信、という信仰と懐疑の逆説、「盲疑」「狂疑」とでも言うべき懐疑の頽落こそは、まさしく虚無・ニヒリズムへの第一歩なのである。

 つまり、絶望が死に至る『病』ならば、ニヒリズム・虚無主義は懐疑・否定の『病』、と言えるのである。
 それが我々に無縁ではありえないことは、昨今の現実の世間を騒がせているテロリスト集団、ISILなどが証している。彼らは盲信・狂信者でかつ虚無主義者であり、絶望者なのである。

コメント

ロランP
No.1 (2015/06/12 17:17)
時間ができたので、過去の記事を読ませていただいてます。

前にコメントしてた頃よりは自分が安定しているため、理解度はあがっちょります。

疑うのは必要ですけど、確かにどこかで歯止めをつけないと、
きりがないですもんね。

疑い続けると、疑心暗鬼、最後は鬼になってしまいますなー
品陀リウキ (著者)
No.2 (2015/06/13 06:17)
そうですね。
「深淵を覗くものを深淵もまた覗いているのだ。」(ニーチェ)

 結局、ニーチェは自らの自我を鬼にぱくりと食べられてしまった
わけですからね・・
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