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哲学随想を試しに書いてみる。28

2015/01/10 22:42 投稿

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さて、科学の基本たる科学観念は、たとえば、先の「猫の固定観念」のように、視覚聴覚触覚等、感覚で「観察」でき、捉えられる現象、に向かうぶんには解りやすい。

 話をややこしくするのは、感覚では捉えられない、思惟や思考でなければ捉えられない、(つまり、『観察』ではなく『洞察』しなければならない)思想や、件の概念、への観念もしくは固定観念、である。先の個人主義資本主義イデオロギーも、全体主義社会主義イデオロギーなどは、自然現象でなく社会現象に向かうだけ、科学観念よりいくぶんはこちらよりの観念である。


 ここで、ひとまずおいておいた、概念、について説明しよう。

 この随想の一番最初においてはまず、思い・考えと思想について、その等しさ(思い=思想)を踏まえたうえで、

 思い≒思想

 という表現がなされたが、

 ここでは、

 思い≠思想

 という部分のその反面を語らなければならない。


 思い、思うこと、すなわち、思惟、はそれが単なる思いや思惟に留まるかぎりにおいては、実は、思想の名には値しない。動作的かつ作用的な思惟を静止的かつ完結的な思想に高めるには、その思惟において規定性と形式、すなわち体系性が必要であり、そうして成った思想、がさらに哲学により高められたもの・・・

 それこそが、概念、なのである。


 概念は形而上的な普遍性かつ法則性であるため、当然、目には見えないし聞こえないし触れられないし、そもそも感覚で認識できない。観察観測できない。
 認識するには、感覚と思想を足掛かりに、正しく考えて洞察するしかない。
 誤まった固定観念などを差し向けようものなら、それを感覚的現象に向けた科学観念の場合などとは比べ物にならないくらい、惨憺悲惨な事態に陥り得る。

 思想という的(まと)に正しく当たった観念の光はその反照により、自己に的確に帰還し、先述の合わせ鏡となってその間を往還往復すればするほどに両方の鏡(自己と思想自体)を磨き上げ、その曇りを除き取り払い、概念を深めていくのだが、
 思想を捉えず、概念を形成することもない誤った固定観念が造り出すのは、ただただ思惟の闇、妄念妄想のみなのであり、これに一生を棒に振る人間精神も決して珍しくはないのである。

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