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哲学随想を試しに書いてみる。27

2015/01/08 20:24 投稿

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観念の働きは、科学の専門性においてより顕著であり、そこでは固定観念もその科学認識の訓練の一過程として立ち現れる。

 人は観念を発するとき、それが「観」の「念」である以上、必ず何かを観ようとしている。
 そして、「何か」を観るということは、その「他の何か」を観ない、ということである。
 先の猫を探す子供は「見えている」茂みに生える草や木の枝、葉っぱは気にもとめない。あたかも、『洞窟の比喩』の洞窟の影しか見ない人々のように。

 前世紀後半、人間観として、個人主義イデオロギストは人間存在の個人性の一面だけを観てその集団・全体性を観ず、全体主義イデオロギストは逆に人間存在の全体性の一面だけを観て
その私人・個人性を観ようとしなかった。
 その人間観を経済や社会制度の次元に延長すると、それらは資本主義イデオロギーと社会主義イデオロギー、となるわけだが、
 そもそも個人性も全体性も人間という存在の両面である。
 そんなもの同士で争ったところで、そもそも決着など付くはずがない。


 ・・・とはいえ、前にも書いたが、だからといってそうしたイデオロギーを断罪するのも、その当時の(主に左翼的な)歴史観が先の大戦を断罪したのと同様の愚、というものである。
 繰り返しになるが、そうした固定観念の時代が遺したものを踏まえ、今、を考える方がよほど建設的、というものであろう。

 そして、ここでまた最初に戻るのだが、科学的認識の第一歩として、固定観念は不可欠である。
 と、いうのも、以前も見たとおり、科学の本質は分析であるため、前提として物を「科」として分け、生物を観るなら生物を観て鉱物は観ない、動物を観るなら動物を観て植物を観ない、猫を観るなら猫を観て犬を観ない、という態度を第一に取らないことには研究の第一歩が始まらない、というのはごくごく自明のことである。
 そういう意味では、固定観念は習慣的な観念、とも言える。
 実際、それを基礎とした科学的態度の習慣(集団性を持つので、より正確には、慣習)に根差す科学技術が我々の社会にもたらした恩恵は、測り知れない。

 問題は、洞窟の影を見続けていることに気づかない固定観念、固定観念から一歩も抜け出ることの無い、先の、概念、になんら接近することのない観念、である。

 概念へ至る観念の一歩・・・それを、前回、「現象に当てられた観念の『光』の反照」、と表現したが、
それこそは、科学の依って立つ大前提で、
その名を

   観察、

  と、呼ぶ。

 これで話が一気に身近になったのではないだろうか。
 そう、科学とは、自己と現象の間に、観念と観察を以て成す、合わせ鏡の往還なのである。

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