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哲学随想を試しに書いてみる。26

2015/01/05 20:24 投稿

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観念と概念については、実は学問の世界においても、かなりなところで混乱が見られ、甚だしい場合には、混同すらされる。そこのところは、世間における命と魂の混同と同様である。

 観念、については同じ語が仏教にあり、その伝統的意味合いが、哲学的文脈としての意味の混乱に拍車をかけている、という事情もあるが、もともと両者ともに西洋思想の訳語として我が国には導入されたこともあり、その訳と定義付けの過程で以上のような混乱が起き、今に至るまでそれが尾を引いていることも推察される。


 だから、観念について説明するには、その概念の初歩的道程にあるものと見なされる、前回、余談において取り上げた「固定観念(イデオロギー)」から話を進めてみるのがいいかもしれない。

 さて、前回は観念のことを、「蝙蝠が闇に放つ超音波」、と喩えたが、これはプラトンが洞窟の比喩をした古代ギリシアの認識観に基づく。
 科学的認識を基礎に置く現代人には奇異に思われるかもしれないが、古代ギリシア人は人が物を見る際、あたかも、蝙蝠が超音波を発するように、その目から「光」を放ち、それが対象に当たり、跳ね返ってくるのを目が受け取ることによって、物が見えるのだ、と考えていた。

 ここで肝心なのは、この古代ギリシア人の認識観における認識に「意志」が介在していることである。
 当然ながら、物は物を「見(観)ようとする気・意志」が無ければ見えていても見えていないのと同じである。そうした意志・思念こそが観念といえるのであるが、ここで蝙蝠の超音波にはない、思念ならではの更なる問題が生じる。

 たとえば、猫を見たことがない子供が茂みの薄暗がりに猫がいないものかと、目を凝らすとする。
 当たり前といえば、当たり前ではあるが、童心に還って考えてほしいのは、その為には、まず、その子供が猫を、すなわち、猫の概念(イデア)を、あらかじめ知っていなければならない、ということである。
 この場合の概念、は言葉、に置き換えてもいい。
 大事なことは、「猫」の語なしに猫を知ることは絶対に出来ない、ということである。

 だから、猫を知らない子供に私たちはまず、「猫」の語と共に、猫の絵やぬいぐるみ、といった想像の助け(表象、と言う)を与え、その子供の心に猫の心象を創る助けをするわけであるが、茂みを見てその心象と「猫」の語を思い浮かべ、猫を探し猫を観ようとする意志が働くとき、そこには「猫の観念」が生じ、茂みに猫がいなくともひたすら探して見続けようと目を凝らし、そこから一歩も動けなくなったとき、そこには「猫の固定観念」が生じるわけである。

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