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哲学随想を試しに書いてみる。24

2014/12/25 22:40 投稿

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  • 永遠の0
「風立ちぬ」がその作中より、国民感情や国民倫理を排していたのに対し、
「永遠の0」はその作中より、特攻隊員が命を懸けるに値するものとみなした八紘一宇や大東亜共栄圏の理想や、それに先立つ欧米列強の白人優位・有色人種差別の帝国主義への敵視といったものを排した上で成り立った作品である、
 ・・・といった批判も一応、可能ではあるのだが、

 そもそもからしてモチーフをありのままに伝えることはドキュメントであって、他方で、創作一般というものが多かれ少なかれ、モチーフに創作者の姿を投影するものなのでもあってみれば、そういった捨象がある程度はやむべからざることだということはあるし、
 そもそも歴史事象が絶対的に一回性のものであるため、再現が不可能、ということもある。

 したがって、他の歴史創作作品の主人公たちが例外なくそうであるように、「風立ちぬ」の堀越二郎も「永遠の0」の宮部久蔵も、
 実は、その作者同様、現代人、と言えるのである。

 さて、ある名作の出現とは一つの事件に等しく、たとえば原作者の百田直樹氏のもとに安倍首相から携帯電話でファンコールがかかってきた、などという逸話もその尋常でなさを窺わせるひとつの逸話ではあるのだが、それでは、「風立ちぬ」に比べて遥かに著しい「永遠の0」の『事件性』について考えてみようか。


 まず、この作品はその物語の構成からして、極めて「正・反・合」の弁証法的である。

 正…「正論」と反…「反論」は両者ともに置換可能であるので、どちらが正か反かはどっちでもいいのではあるのだが、便宜的に宮部の「私は死にたくないです。(生きたい。)」を『正』論とすると、
 「風立ちぬ」で排除された当時の国民感情・倫理を体現する同僚たちからの

「奴は海軍一の臆病者だ!」や、「飛行機乗りは国に命を預けている!」
「自分たちはどうせ生き残れない!華々しく散ったほうがいい!」
「どうして私たちに(特攻の)『可』を出さないのですか!?」
「凄腕のくせに戦闘を避けるあいつの存在自体が許せなかった」
「私が代わりに死ぬべきだった。」

  ・・・など様々な『反』論が投げかけられ、
 それらが怒涛のうねりをもって集約・収斂しつつ
 止揚されて『合』論を形成するとともに、宮部久蔵の真実の姿が明らかになり、最後にはその孫の中で甦り、時を超えて0戦と共に現れ別れを告げ、特攻に飛び立つ・・・

 論理学は数学よりなお抽象性の高い学問だが、その見地から見ても、この作品の弁証論理性は極めて高かったといえるが、優れた芸術作品にそんな評価は野暮というものだろう。

 まともな日本人ならば涙なしには見れない、語れない名作であり、タイトルのとおり、日本人の在り方に対し、永遠性をもって絶対不動の0点座標を示す作品ですらある。


 哲学者・長谷川三千子氏は自らの世代である戦後直後世代を振り返り、
「闇から生まれた世代。」
「正義という語を失っている。」・・・とまで言っており、

 これは同じ世代の、先の宮崎氏の
「命は闇の中の瞬く光。」
「私たちは闇から生まれ、闇へと還る。」
 とぴたりと符合する。

 そんな絶望的な命にも意味があったとすれば、そうした0に至る過程としての意味しか有り得ないのではないだろうか?

戦後70年―
 我々は回り道に回り道を重ね、ようやく侍の正統なる後継たる我々の父祖・特攻隊員の背中に追い付き、彼らと語らい得る地平に立てたのである。

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