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哲学随想を試しに書いてみる。23

2014/12/23 21:16 投稿

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と、なれば、「もののけ姫」の「生きろ。」というキャッチコピーの厳しさも窺い知れようというものであるが、生きることをもって、果たして死をもって尊厳を示した者の在り方を超えられるのか?
 それはとてもとても難しい。
 大概は、坂口安吾の「生きよ。堕ちよ。」が関の山であるが、
 我々は生き方を学ばなければ生きれないというわけでもなく、現に生きながら生き方を考えているのだから、そんなに深刻に考えることでもないだろう。
―鍵は、以下の言葉である。

 「グノーティ・サウトン」・・・『汝自身を知れ』

 ・・・これは、ソクラテスに神託を下したアテネ神殿に掲げられている箴言で、ある意味ソクラテスはこれをその対話相手たるソフィストたちに絶えず問い続けたわけだが、
これを「人」が「生きる」こと・・・すなわち、人生論、に置き換えると、こうなる。

「人生の幸福は魂の徳である。」―


 ・・・やはり、「魂」と「徳」が引っかかることだろうが、生きることへの意味づけ意義付けは、はっきり言ってしまえば、これ以外には、有り得ない。
 人は動物の本能を失っており、坂口安吾の「堕落論」のようにただ生きることには決して耐ええないからである。

 奇しくも宮崎駿監督が最後の長編アニメーションと銘打った作品・「風立ちぬ」が尊厳ある死を体現した特攻隊員たちの乗った零戦の作者・堀越二郎を扱いつつも、堀越から、とうぜんあってしかるべきだった、その国民感情や倫理というものを徹底的に排し、ただただその職人魂、すなわち、宮崎自身の魂を描こうとしてしまい、その結果として、同時期に公開された同じく零戦とその乗組員を描いた作品・「永遠の0」を超えることが出来なかった、というのはなんとも皮肉かつ、象徴的である。


 宮崎の「生きろ。」が求めた、侍の魂を求めての自死・自己犠牲からの命の自立は、むしろその「永遠の0」が引き継いでいるものとみていい。

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