命と心が違う存在であるように、魂と命・心、もまた、違う。
文学を基盤とするアニメ・漫画・ゲームなどの創作物の中では、これらは無自覚ながらもしごく常識的な事柄として扱われているのではあるのだが、現実においては通常、人が忌避する死にまつわる事柄であるがゆえに、命・魂・心はよく混同されやすい。
それは、「昭和元禄」、と自らの時代を吐き捨て、かの時代に侍たらんとした戦後の大文学者・三島由紀夫にしてすらもそうで、彼はその遺言的エッセイ、「若きサムライのために」において、こう言い残す。
「命を守る為には命を捨てねばならない。」―
彼がこうした逆説表現で言わねばならなかった背景には、先述した、当時の生命至上主義への反抗も大ではあったのだろうが、侍たらんとした彼が侍の様式に従い、割腹してまでし、命を捨ててまでして守りたかったのは、やはり、彼自身の「魂」だったのではないだろうか?
言い換えるならば、こうである。
「魂を守る為には命を捨てねばならない。」
これならば、直観において、すっきりする。
これは彼の求めた自由人・侍の姿勢そのものである。
さて、それでは肝心の、命とは、心とは、魂とは何なのか。何(What)であるのか?
まず、命・・・生命、は死の逆、生、の絶対根拠であり、科学の一領野である、
生物学、
の、根本概念である。
そして、生物学が対象として扱うのは、鉱物、という非生物を除く、動物と植物であり、アニミズムの立場からは、非生物・鉱物にも「精霊」という概念において、生命を認められる。
全てに命を認めるアニミズムの先には、全てに心(精神)と、その極限超越である神、を認める多神教の思想がさらにあるのだが、命と心は違うので、ここではまだそこには踏み込まない。
さて、 そうしたアニミズムにおける生命観や生物学における生命観に配慮してみたとすると、命とはとりもなおさず、喰って喰われる…奪い奪われ、循環するものである。
そして、その循環を因業として捉えた仏教の教説においては、その場は「畜生道」となり、そこでは命とはその因業の車輪を回す根本動力と言えるだろう。
少々救いのない話ではあるが、生きることは、生ある限り、他の命を食べることである事実はなんともいかんともしがたいので、それは本当にしょうがない。救いがあるとすれば、食物連鎖における最終的な『被食者』・植物の食べる光や空気(二酸化炭素など)にも命があるものとみなし、全ての生き物に等しく『捕食』の罪を見出す、超アニミズムとでもいうべき視点を持つくらいなものである。(その場合、光や空気の『捕食』するものが何かも考えるべきなのだが)
妙な話になったが、総体として見ると、ある人、ある生き物の命とは、このように、その者のものであって、その者のものではない。
循環し、奪い奪われ、親子がそうするように、与え与えられたりもするものでもあるところは、どこか、人間の発明した通貨、というものにも似ている。
命の最も溢れる場所は、最終的な被食者である「光」の当たる赤道下の熱帯であるが、命は海・・・すなわち、タレスが「万物の根源」とした水を通しても繋がるので、光の当たらない極寒の極地や、場合によっては水の希少な砂漠にも魚・プランクトンやわずかな水を介して生息し、その種を展開・発展させる。
命の本質は、そのように、光を原動力とした種の、水を介した絶えざる動的な循環と進展発展、と言えるのである。
文学を基盤とするアニメ・漫画・ゲームなどの創作物の中では、これらは無自覚ながらもしごく常識的な事柄として扱われているのではあるのだが、現実においては通常、人が忌避する死にまつわる事柄であるがゆえに、命・魂・心はよく混同されやすい。
それは、「昭和元禄」、と自らの時代を吐き捨て、かの時代に侍たらんとした戦後の大文学者・三島由紀夫にしてすらもそうで、彼はその遺言的エッセイ、「若きサムライのために」において、こう言い残す。
「命を守る為には命を捨てねばならない。」―
彼がこうした逆説表現で言わねばならなかった背景には、先述した、当時の生命至上主義への反抗も大ではあったのだろうが、侍たらんとした彼が侍の様式に従い、割腹してまでし、命を捨ててまでして守りたかったのは、やはり、彼自身の「魂」だったのではないだろうか?
言い換えるならば、こうである。
「魂を守る為には命を捨てねばならない。」
これならば、直観において、すっきりする。
これは彼の求めた自由人・侍の姿勢そのものである。
さて、それでは肝心の、命とは、心とは、魂とは何なのか。何(What)であるのか?
まず、命・・・生命、は死の逆、生、の絶対根拠であり、科学の一領野である、
生物学、
の、根本概念である。
そして、生物学が対象として扱うのは、鉱物、という非生物を除く、動物と植物であり、アニミズムの立場からは、非生物・鉱物にも「精霊」という概念において、生命を認められる。
全てに命を認めるアニミズムの先には、全てに心(精神)と、その極限超越である神、を認める多神教の思想がさらにあるのだが、命と心は違うので、ここではまだそこには踏み込まない。
さて、 そうしたアニミズムにおける生命観や生物学における生命観に配慮してみたとすると、命とはとりもなおさず、喰って喰われる…奪い奪われ、循環するものである。
そして、その循環を因業として捉えた仏教の教説においては、その場は「畜生道」となり、そこでは命とはその因業の車輪を回す根本動力と言えるだろう。
少々救いのない話ではあるが、生きることは、生ある限り、他の命を食べることである事実はなんともいかんともしがたいので、それは本当にしょうがない。救いがあるとすれば、食物連鎖における最終的な『被食者』・植物の食べる光や空気(二酸化炭素など)にも命があるものとみなし、全ての生き物に等しく『捕食』の罪を見出す、超アニミズムとでもいうべき視点を持つくらいなものである。(その場合、光や空気の『捕食』するものが何かも考えるべきなのだが)
妙な話になったが、総体として見ると、ある人、ある生き物の命とは、このように、その者のものであって、その者のものではない。
循環し、奪い奪われ、親子がそうするように、与え与えられたりもするものでもあるところは、どこか、人間の発明した通貨、というものにも似ている。
命の最も溢れる場所は、最終的な被食者である「光」の当たる赤道下の熱帯であるが、命は海・・・すなわち、タレスが「万物の根源」とした水を通しても繋がるので、光の当たらない極寒の極地や、場合によっては水の希少な砂漠にも魚・プランクトンやわずかな水を介して生息し、その種を展開・発展させる。
命の本質は、そのように、光を原動力とした種の、水を介した絶えざる動的な循環と進展発展、と言えるのである。
コメント
コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。