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哲学随想を試しに書いてみる。19

2014/12/11 22:20 投稿

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さすがに、今どき自由と放縦や我儘をはき違える人もいないものとは思われるが、「神」の語どうよう、かつてはこの言葉の扱いも本当にひどいものだった。

 たとえば、近代社会の原則のひとつである職業選択の自由の前提にはそもそも選択されるべき職業、の存在がなければならないことは、雇用が失われるここ十数年来のデフレ不況を味わった我々には容易に知られることだが、
 そもそもその職、というものの根拠は役割分担を本質とする国家の存在、であり、古来より国家の元首や王は何らかの国家理念を掲げ、国民にその役割、すなわち、職を与える存在であった。

 と、なれば、戦後に流行ったいわゆる左翼思想の国家解体論などは、それこそ狂気の沙汰だというのも容易に知れるはず、というものなのだが・・・

 これが、「言論の自由」の旗の下に大々的に喧伝されていたことは、少し昔を知る人ならば、周知の事実である。(事実、左翼活動家出身の元首誕生とともに景気も雇用も加速度的に後退した苦々しい記憶は今なお我々の記憶に新しい)

 左翼思想の是非はともかくとするが、しかし、これはやはり言うなれば、「自殺の自由」や「悪事の自由」とでも言うようなたぐいの、そもそもの自由の前提である選択肢を潰し、自ら不自由に陥っていく、というような、明らかに倒錯した自滅的自由論である。


 百歩譲って、さらにたとえば90年代から00年代初頭にかけて問題になった、「援助交際」のような、「売春する自由」などがあったにしても、自由とはその選択に対する責任と裏腹である。
 仮にその後、彼女たちが結婚して家庭を築いたとしても、それを維持する倫理における瑕疵がどうして尾を引かない、ということがあり得るだろうか?



 ・・・以上に端的に見たように、そもそもからして、悪を為す自由、というものは有りえない。

 正義と悪の問題は、相対主義という、そもそも主義とも呼べないまやかしに、まやかされさえしなければ、極めて、単純である。


 ソクラテスにあっては、悪の原因は無知、であり、アリストテレスにあっては、悪の原因は依存、であり、キルケゴールにあっては、悪の原因は絶望、であり、


 いずれにしても、悪は自由と、相容れない。

 「悪事を働く自由」という表現自体が、自由という美辞麗句に依存し、自由という概念に対する無知に付け込み、決して自由を得られないという絶望に基づく、悪の修辞なのである。


 キルケゴールの大著、「死に至る病」で語られる死に至る病・絶望、に関する考察は極めて逆説的であり、
 そこで、絶望とは「『死』に至る、決して死に至らない・至れない」病、と語られるのだが、この逆説・反語はよくよく考えないことには解けはしない。

 当然ながら、侍が見出した「死ぬことと見つけたり。」の死、は死、であって、『死』ではない。

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