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哲学随想を試しに書いてみる。18

2014/12/09 23:22 投稿

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  • ローマの格言
さて、律令制下の平安時代中期の我が国に生まれ、明治維新によって表面上には消えはしたものの、今なお、世界の人々を魅了してやまない侍、という誇り高き日本の戦士たちと、彼らをそう有らしめた「武士道」について語る前に、もうひとつ、「死」をその存在基盤とした古代のヨーロッパ人の考えについても語っておきたい。

 それは、ローマ人の考えに端的であり、
 彼らの死生観をよく顕す秀逸なことわざ・格言には、こんなものがある。

「メメント・モリ」 (死を忘れるな。)

「ネモ・アンテ・モルテム・ベアートゥス」 (誰しも死ぬまでは幸せではない。)

「エリペレ・ビタム・ネモ・ノン・ホミニ・ポテスト エト・ネモ・モルテム」 
(人の命を奪うことは誰にでも出来るが、死を奪うことは誰にも出来ない。)


 最初のは大前提と言っていいものだろう。前回も言ったとおり、人と動物を分かつものであるが、
 その次のものは、ヘロドトスの原典では古代中国の人生論的格言「人間万事塞翁が馬」のようなニュアンスを持つものの、死の持つ決定論的性格を端的に表すのが面白い。

 すなわち、生きることは絶えざる変化であり、よって、生きている者は生きている限り、(幸せである、という決定・結論含め)何物でもない、ということである。

 こうした決定論は規模を世界に拡大すれば、たとえば、北欧神話のラグナロク(終末の日)、ヒンズー教の破壊神シヴァによる世界の破壊、キリスト教のヨハネ黙示録が語る審判の日、などといった終末神話の意味も見えてくるのだが、個人の次元の死で見るなら、やはり、冥王ハデスや耶麻天・閻魔大王の死後の裁判・審判といった説話の意味だろう。

 幸福に死んだ人を晴れて「幸福な人」と呼べるように、死んだ人にはたとえば、生きている善人が出来心で悪事を働いて「悪人」になったり、逆に悪人が悪人正機の仏心で善行して「善人」になったり…といったことがない。
 そういう逆説では、死者のほうが生者よりもよっぽど「確か」な存在なのであり、死後の審判というのもまた、それゆえに説得力を持つのである。


 そして、三番目のものは、ある人の死というものは、絶対的にその人の死、であって、決して代わりの効かないものであることを示唆する。
 先の、死というものの決定性・審判性とこれをからめるならば、1、としての人というものは死によってこそ完成・完結し、初めて「誰か」「何か」というものになるのである。

 人は動物と違い死を認識する。
 そして、いかなる死を選ぶか?  …これは、同時にいかなる生を選ぶか?
ということであり、その選択と決断にそれを遂行する無量の責任感が加わったもの、

 それこそは、無限の神や無の仏には無く、有限の人にのみ有る、人を神や仏に対峙させうる人ならではの尊厳を持つ概念、


 自由、


 ・・・である。

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