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哲学随想を試しに書いてみる。17

2014/12/05 06:21 投稿

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  • 死生観
ここまで繰り返し繰り返し無について語ってきたが、ここで念を押しておきたい。

 この無、とは正確には「無」である。

 つまり、括弧「」に括った「仮の」無、である。


 と、言うのも、そもそも完全なる無は無いのだから、無は神に対する理知感性がそうであるように、思惟も言及も論考も表出も表現も絶対に不可能である。

 しかし、

 「無は思うことも語ることも表すこともでき『ない』。」

 と思惟言及表出は、出来る。


 このような思惟言及表現を、逆説、と言い、これこそは哲学とその奥義・弁証法の真髄であり、神や無に対するほとんど唯一と言っていいアプローチの手段である。




 なぜ、こんなことを改めて確認したのかというと、前回、最後に提起した問題、
 生死、
 もまた、とりわけ、「死」の問題がこうした純粋「無」、完全「無」に大いに重なるものであるからである。

 ソクラテスはその最後の弁明において、死を「ハデス(冥界)に赴くこと」か「夢を見ない眠り」であるか、と表現し、それが宗教的信念によって捉えた死か哲学的理念によって捉えた死かであることは先に見たとおりであるが、ここではとりあえず、後者に着目しよう。

 我々は生きれば生きるだけ、なんらかの形で他者の死に接する。
 親しい人との死別はとりわけ衝撃も大きく、ちらりと思うことすら厭わしい。無関係な人の死は連日、報道で聞き流している。その間の、関わりのある人の葬儀への参列回数は、やはり生きれば生きるだけ増えるもので、それは人を成長させるものでも老いさせるものでもある。

 そして、自分自身の死、もそうしたことで予測は立つ、が、それはイメージとしてはまさしく「夢を見ない眠り」で、一切、思惟が出来ない。


 ここにおいて、死は無と一致する。
 裏を返せば、生は思惟出来る全て、と言える。
 死を考えることは、逆説として、生の全てを考えることである。

 死は多くの場合、恐怖や忌避されることでもあるが、そのさらに先にあるのはそれで、それを知ることは人と動物を分かつことでもあり、「武士道とは死ぬことと見つけたり。」に集約される、我が国ならではの侍の思想に至る道でもある。

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