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哲学随想を試しに書いてみる。16

2014/12/03 18:54 投稿

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さて、無限者にして絶対者たる神…この場合はユダヤ教・キリスト教・イスラム教など一神教の神(God)を生んだ、というより、一神教の神を『発見した』西洋、の哲学者ヘーゲルは、そんな自らの風土を踏まえつつもアジアを眺めたその著書・歴史哲学講義において、

「アジアで最も偉大な思想は無の思想。」

 と語っている。

 じじつ、0、という数の概念はアジアのインドで見いだされ、インドが生んだ仏教も無を志向する宗教であり、これが∞、と符合する一神教の神と対称を成すのは先に見てきたとおりである。
(惜しむらくは、ヘーゲルが「日の昇る地」としたそんなアジアの中でも更に最東の最初に「日出づる国」…そう、我が国・日本をその大著における考究の俎上に載せることが、時代の制約上で出来なかったことだが、それを受けて我が国の哲学者・鈴木大拙が禅の研究などを成していたりもする。)

 先に数学(幾何学)を「存在がどこ(Where)であるか?」を問う空間の学問、と言ったが、0と∞と1を空間的に考えると、

 0は「どこにも無く」、∞は「どこにも有り」、1は「どこかに有る」。

 と、なり、
 その「どこか」は高次元空間や複素数平面や2進法の電脳空間でもどこでもいい。

 アインシュタインはリーマン幾何学の歪曲空間を現実の宇宙の重力場形成に当てはめて一般相対性理論を見出し、そうした高等数学・高等幾何学で宇宙の法則の謎を解こうとする試みは今なお理論物理学の世界で隆盛しているが、以上の0と∞と1の存在論が全ての土台であることにはまったく変わりがない。


 さてここで、0と∞から隔絶されつつも、両者の間にある1をもう一度振り返ってみよう。

 有限の1に有って無の0と無限の∞に無いのは、生滅、始まりと終わり…人生論や人間論で言えば、
  生死、
    の問題である。

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