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哲学随想を試しに書いてみる。12

2014/11/28 13:44 投稿

コメント:2

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そう。宗教のキモは、「無→有」に至る、神による「無からの創造」と
          「有→無」に至る、仏による「有からの解脱」である。

 仏教の真実を集約したという般若心経ではその極意を、

 「空即是色、色即是空」

 とごくごくシンプルに説き明かす。(この場合、「空=無」「色=有」)

 有るものはどこまでも有るものであり、無いものはどこまでも無いものである、哲学・・・
より正確には、論理学、では決してこれが、無と有の架橋が、認められないのである。


 ただし、念を押しておくと、以上の事柄は、べつだん哲学や論理の限界というわけではない。先に見てきたように、哲学は科学の何たるかを明らかにしつつも科学を否定したわけでは
なかったように、宗教に哲学が否定されるわけでもない。

 哲学は無から有への創造のごとき、神の神秘を否定するのではなく、むしろ神秘から新たに出発するのである。


 実際、当の「信じる」にしても、その在り方を遠巻きに眺め、それが前回に挙げたような軽信や迷信や盲信や狂信でないかを明らかにするのもまた、哲学の視点であり、
 哲学は信仰、ではなく、確信、を求めるのである。


 では、厄介極まる宗教の「無⇔有」の往来を何と捉え、何と確信すればよいか?


 たとえば、数学の禁じる、数学の土台をそれこそ、根こそぎ覆しかねない、

  1÷0
 (有÷無)

 である。

 これをタブーとしながらも、実は数学にもこの「有と無」の総合を図った苦渋の痕跡があり、それこそは高校数学で学ぶ、無理数と虚数・複素数、と言える。

 円周率3.141592…はもとより、√2=1.4142…、√3=1.73205…といった「無限に」割り切れない無理数や、√-2、√-3といった「実在しえない」虚数、1+√-2、2+√-3、といった、「実在する」実数と虚数の複合である複素数、といった数の定義付けによる発見もひとえに、

「存在は何処(Where)にあるか?」 の学問である幾何・数学の地平における、

「有」の側から「無」を取り込み、架橋せんとする営みだったのである。

 ヘーゲルは数学を「最も抽象性に近い、いまだ具象性・具体性の学問」と喝破したが、純粋な抽象性とは、形而上性であり、まさしく神の領域である。

 それでは、宗教の次はこの数学の領域でもって、この「有と無」をめぐる問題を追ってみるとしよう。

コメント

かぼちゃ丸
No.1 (2014/12/04 22:43)
ヘーゲルは難しすぎてさっぱりです;;
品陀リウキ (著者)
No.2 (2014/12/06 20:16)
>>1
ああかぼちゃ丸さんコメントありがとうございます^^

 ヘーゲルの弁証法は、何であれ物事を考えて考えて考え尽くして「ああ、存在はこういう表現方法しかないのか。」といったところまでいかないと、やはり解りにくいかもしれませんね。

 無限とかを持ち出したのもそのためで、解ってしまえば、ヘーゲルは全てひと連なりですよ^^
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