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哲学随想を試しに書いてみる。10

2014/11/25 22:00 投稿

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「心は知るところのものである。」(ソクラテス)

 当然、この「もの」は「存在(もの)」であって、「物質・物体(もの)」ではない。
そしてまた、あえて通例どおり「物(もの)」とした場合の物、は

 物⇔心

 という具合に弁証法的対置されるものでもある。
 心とは物でないものであり、物とは心でないものである。
 (これは「魂」や「鬼(もの)」、といった古来よりある概念にも至る重要な区分なのだが、今は措く)

 知るところのもの、心、すなわち、精神性のその純粋性を高め尽くした極限や究極の更に先の高みにあるもの、それこそが、

 神、

 と、言える。と、いうより、そう言うほか、ない。

 精神性やある考えというものは、そもそもネットに飛び交う情報を世界各地の万人が言葉や知識を媒介して共有できるように、本来的に「誰かのもの」とは言えないのみならず、さらには「どこかのもの」「いつかのもの」とすらも言えないものである。
 それはたとえば、ピタゴラスの三角比の定理をいつどこで誰が試行しても同じ、といったことに似ており、
 つまるところ、神の愛や英知が万人万物万象に等しく「平等に」降り注いでいる、と伝承や教説に表現されるゆえんのところのものであり、平等、が徳律とされるゆえんでもある。科学において探求されるE=mc²のごとき、全宇宙に偏在する普遍の法則もまた、こうした神性において捉えうる。

 また精神性はとうぜんそうした学問以外の場にも展開される。
 たとえば古典的には、英雄というものは半神、と規定されるものだが、現代において、肉体や美術でもってそのような在り方を表現するのは優れたスポーツ選手や芸能者(アイドル、はそもそも神の偶像、の意)などである。我々は彼らの精神性の飛躍とそれに基づく肉体性や表現の在り方に神の片りんを見、さらには求めているのである。

 そういう意味では、叡智と神とはほぼ等しくなってくるのだが、本義的に神は人間を超えたものなので(通俗的虚無主義より発せられる『神は人間が作り出したまやかし』などといった言質は文学としては成立するが、哲学では本義論として不可能)、限りある人間の理念や知性の及ぶところではなく、理念を超えた信念でなくば神とは接触・交渉できない・・・と、いうことになり、通例、宗教は信心を求め、信者たることを求めてくる次第になるのである。


 信心、すなわち信じること・・・

 これこそが宗教を宗教たらしめ、世俗の人に宗教への距離を取らせ、この問題にあたる知性や理念の哲学をも慎重にさせる最大の要因になるわけなのだが、次はそれについて語りたいと思う。

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