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イーストウッド監督『ハドソン川の奇跡』は一種の法廷映画である

2016/10/23 00:18 投稿

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トム・ハンクスは彼が(比較的)若い時の『ビッグ』から見始めて、『ガンプ』や『プライベートライアン』などの名作で何度もその姿を見ることになり、年取ってからは、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』では堅物のおっさん役がハマっているのにびっくりしたり、『ターミナル』では不器用だけどロマンチックな男の役を演じていたり、役柄が広いのもすごいけれど、年取ってからもいい役をがんがんもらえているのがすごい。

というわけで、『ハドソン川の奇跡』もその例に漏れず、おっさんだけど主人公を演じているのがトム・ハンクスである。イーストウッド監督と組むのはこれがはじめてらしいが、見る前から二人の相性がよさそうなのはわかる。

『ハドソン川の奇跡』は実際にあった出来事と、それについて書かれた小説を元にしている。事件についてはwikiを見ておいてほしい。すでに再現ドラマも数種類作られている。

この映画を「ただの再現ドラマ」としてしか見れなかったという人もいたようだが、TVで放映された再現ドラマと見比べるとその質の差は歴然だ。まあそんなことはどうでもいいし、上のドラマはドラマで、映画では描かれていないことを描いているので見る価値はある。

さて、この映画は、変則的な法廷劇である。事故の後、国家運輸安全委員会(NTSB)のミーティングが開かれ、そこで機長のSullyによるハドソン川への着水という決断は本当に正しのかったかどうかが検証される。そこで、事故の直後に空港に引き返していたら着水などする必要はなかったのではないか、と言われるわけだ。この映画の見所は、機長が、その追求をどうやって交わすか、反論するかという点にある。

これは、そういう意味で、ひどくアメリカ的な映画である。もしこれが日本映画なら、機長とかレスキュー隊が迅速で的確な判断をした「プロの映画」みたいな作りになることだろう。『シン・ゴジラ』みたいな。ところが、アメリカではそれだけでは十分ではない。英雄的な行為をした人物がその後、その行為が真に正しいものであったと、弁論によって自分で自分を正当化することができてはじめて、英雄は英雄のままでいられるのである。これは、日本とアメリカ文化の決定的な差である。

アメリカ映画で、法廷劇が異様なほど好まれるのもそのためだ。もし機長が日本人で、最後の公聴会のところで「オレは仕事した。男はつべこべ言わねえ」みたいな態度でいたら、尊敬されないどころか、下手すりゃ犯罪者になるのである。弁論で勝つ、これこそ(日本人が言うところの)プロだ、という感覚がアメリカ人にはどうやら身体レベルであるようなのだ。であるので、単純なアクションものと恋愛ものを除くアメリカ映画のほとんどで、議論とか弁論シーンが大きな意味をもっている。

というわけで、この映画も、最後の公聴会が法廷劇における最終弁論みたいになっている。ただし、弁護士はおらず、機長自身が自分の弁護をする。

というのも、国家運輸安全委員会(NTSB)の検証によると、事故のすぐあとに空港に引き返していたら着水などする必要はなかったという結果が出たからだ。現職のパイロットによる事故のシミュレーションによって、そのことが検証された、というのがNTSBの言い分である。そこで、機長がそれに反論するわけだ。人間によるシミュレーションを見たあとに機長とNTSBがやりとりする場面で次のような会話がある。
(機長)「おいおいこれは一種のヤラセだろ。バードストライクのあとすぐに戻れって指示をあらかじめ受けているだろ。パイロットはこれ何度練習してるんだ?」(NTSBの人)「指示を受けているのはそのとおりです。練習は事前に17回しました。」(機長)「事故があったときには航空史上はじめての事態だったんだ。いろいろ把握するのに時間かかったんだ。人間ファクターを考慮しろ。」(NTSBの人)「ではシミュレーションにヒューマンファクターとして35秒追加します。」
というシーンがある。

このやりとりが本作のハイライトである。観客にこのやりとりの意味を完全にわからせるために、それまでに、実際の事故の状況の細部をこまごまと再現してきたわけだ。

さて、事故の後に35秒何もしない時間を追加してその場ですぐにシミュレーションしてみたところ、空港に引き返すのは無理だとの結果が出る。当時の機長の判断の正しさが認められた結果となったわけだ。機長と副操縦士はみなに賞賛される。その賞賛のシーンはカタルシスの場面だが、その場面を導くのに決定的なのが上のやりとりなわけだ。ここで、機長は自分の正しさを証明できるはずの主張をし、それが受け入れられた。

欧米では、相手の言うことそのまんま了承すると、大損することがよくある。「いやいや、その数字はあんたがたに都合の良い用に出しているだけでしょ」ってことを、具体的に指摘しないと、相手に都合の良い分そのまんまこっちに都合の悪いことになってしまう、そんなことが交渉事では日常茶飯事で起こる。基本、欧米における交渉事というのはそういうものなのだ。ふっかける側はできるだけ自分に都合の良いような条件を出すし、相手もできるだけ自分に都合の良い条件を相手にのませようとする。それが日常レベルで起きている社会、それが欧米である。

そういう社会では、この場面での機長のように、相手の言い分の瑕疵をついて、自分に有利な条件を導く、というのが生死に関わるレベルで重要なのである。この機長の議論の能力は、ある意味、彼が155人を救ったパイロットしての能力と同じくらい、あるいはそれ以上に大事なものなのである。これは、そのこと自体の良し悪しはおいておいて、そういうことを描いている映画なのだ。

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