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ミリオンライブに初めて触れる人に最新CDだからといってTHEATER CHALLENGE 03を勧めてはいけない

2020/07/29 20:54 投稿

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 はじめに、この文章は7/29発売のCD「THE IDOLM@STER THE@TER CHALLENGE 03」を既に視聴した人たちに宛てたものであり、したがってまだ聴いていない人たちは読むべきではない。ネタバレにしちゃ早いとも思ったが、時間が経つほどに意義を失うと感じたので筆の勢いのまま投稿することにした。


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 2020年7月28日は発売日前日なのだが、いつも利用している通販業者は予約商品を必ず前日に配達してくる。つまり、私が切望していたCDは今日の午前中には届いていたわけだ。緩衝材付きの封筒に一品だけ封入されたそれは、稲妻が走る洋館を背景にして五人の少女――いや、三人の少女と、二人の女性が何れも昏いものを表情に映したジャケットで飾られていた。

 THE IDOLM@STER THE@TER CHALLENGE 03のタイトルが振られた、新曲と共通曲、そして一時間弱にもなるドラマパートで構成されたシングルには、開催予定日の書かれていないリリースイベント応募用紙が封入されている。一度はキャストの病気療養で制作が延び、昨今の禍難により発売時期もしばらく未定であったが、これもそのうちのひとつだ。我々がこれから奪われるものの大きさも、今から知ることはできない。
 さて、そんな中にあって運ばれてきた、私の心を少し晴らしてくれる一枚のCDが今回の主役である。
 ええと。正しくはCDではなく、その内容に触れた人間の感情だ。
 不思議なものだ。中学生のころは、あんなにも読書感想文が嫌いだったのに。


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 掛かりつけの皮膚科から帰宅してすぐ、PCを起動する。ところで、Windows10のログイン画面は結構な頻度でEnterキーを押しても時計が画面上に飛んでいったまましばらく老眼のシミュレーションをさせられたあと、また最初の時計が出てくるという現象を起こすのだが、SSDに換装すれば改善されるのだろうか。たまにキーボードを受け付けず、マウスで画面をドラッグさせられることもある。ムカつく。
 話が逸れた。そうやってMicrosoftに対するヘイトを溜めながらスタートアップを待ち、桃色に塗られたディスクをBDドライブへ送り込み、意気揚々とイヤホンを耳へ押し込みながら、自動再生を待つ。
 トラック01開始ゼロ秒で戦慄した。恐怖と拒絶にまみれた釘宮理恵ボイスの絶叫ガチ泣きを初撃にぶち込んでくるアイドルコンテンツのドラマCDがこの世に存在するとは露ほども思っていなかったからだ。二分半ほどのプロローグは、ドラマ『誰ソ彼ノ淵』の世界へ私を突き落とすには十二分だった。先にミリシタゲーム内イベントと連動して開催されたTCガシャの二階堂千鶴のカードは、サスペンスホラーという題材と『肉料理と赤ワイン』の晩餐の光景から人肉食を連想させると一部で話題になっていたのを憶えている。憶えていたので、面食らった。「――マジでカニバリズムやんの? アイマスだぞ?」
 別に人肉と決まったわけではないが、そう思わせる材料があるというのは素晴らしい。

 つい先日めでたく十五周年を迎えたアイドルマスターに初めて触れたのはシンデレラガールズのアニメで、二期開始までの空いた期間に供給がほしいとモバマスを始め、デレステに手を出し、今ではミリシタにすっかり沼っている。他にもSideMのCDとかライブBDをちまちま買ったり、シャニマスもとりあえず黛冬優子とWING準決勝までは進めた。その程度の遍歴だが、鼻先くらいまで浸かっているミリオンライブ沼にあって、前から感じていることがあった。

 ――ミリオンライブの劇中劇、死人出過ぎじゃない?

 アイマスの劇中劇と言ってもキサラギとか果てしなく仁義ない戦い、眠り姫の嘘予告程度しか知らないが。キサラギと眠り姫はバトルモノらしい退場なんかを感じ取ることはできるが、仁義では普通に刺殺シーンとかがアニメ化されている。ミリオンはゲーム中イベントの仕事としてドラマが描かれたりしたほか、THE@TER ACTIVITIESに始まりMTGなんかのCDシリーズでも劇中劇が展開されている。SideMもサイバネやベスゲがそうだ。シンデレラは公演という体なので、765やミリオン、SideMのような劇中劇らしい劇自体は少ないように思うが、殺人そのものが描かれたことは殆どないように思える。エイプリルフールに実装されたドリーム・ステアウェイでは結構明確に死が描かれたのではないだろうか。
 ミリオンライブは劇中劇自体の数が多いのもそうだが、特に殺人描写に於いては他に比べて群を抜いている。なんせランキング動画を作れるほど殺しているのだ(作ったので解る)。一体どうなっているんだろう。

 まあ、そんな感情を抱えていたので……トラック02の楽曲「クルリウタ」がフェードアウトしていく頃には、CDを開封する時以上の期待があった。『誰ソ彼ノ淵』は本気だ。猟奇と狂乱を我々に魅せつけるつもりなのだ。『学園ホラー』でぷっぷかさんが秘めていた純真も、選択と結果だけを伝えてくれた『屋根裏の道化師』の良心も、『End of the world』でバスターブレイドが見せた同情や後悔や優しさも、この孤島にはない。不安と焦燥に追い立てられ、容赦なく凄惨な結末へと駆け抜け、恐怖と拒絶にまみれながら終りを迎える定めなのだ。そして、過去最高に居心地の悪いDIAMOND DAYSは、決して慰めにはならない。
 十五周年の盛り上がりを機に、ブランドの垣根を超えたPの活動がより大きく広がっているように感じる。そんな中で、周囲から「ミリシタやってみるか~」とか「ミリオンでこれ聞いとけって曲ない?」みたいな声が聞かれるミリPもいることだろう。この感想文はそういう人たちに読んでもらいたいと思っている。
 そうだ。ミリオンライブに初めて触れる人に最新CDだからといって安易にTC03のCDを勧めてはいけないという話である。


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 ここからはネタバレパートだ。
 まずはドラマパートについての感想を書き連ねていきたい。

 ドラマの進行は、パニックホラーとしてはよくあるものだ。
 遭難した先で怪しげな洋館の主人に助けを乞う。主人は快諾する。主人の秘密を知ったものが消される。それを主人はごまかし、遭難者は不信を募らせる。そして逃げ出そうとして、全員殺される。大雑把に言えばこういうことである。
 最初、ミリシタの『クルリウタ』MVラストで野々原茜が断頭台で首を落とされている(注・ギロチンは首とともに手首を顔の横で固定されるのだが、最後のポーズがそう見える。そして直後にステージを向いたカメラが落下する)のではないか? という解釈が一部で広まった時「ああ、惨劇の責任を野々原茜が負わされて処刑されるのかな……」なんて思っていたが、それは間違いだった。しかし「野々原茜が最後に断頭台に乗る」というMVの構成には意味があったと思うのだ。

 さて、話の大筋は真新しいものではない。そこに異質さを生み出しているのがプロローグとエピローグである。合計しても五分程度で、台詞も多くない。しかし、ここに『誰ソ彼ノ淵』の恐怖の根源があると私は考えている。
 どちらも泣き声から始まる。恐怖が掻き消すラジオの音声を聞き取ることは難しくない。そしてその音を、主人に命じられてメイドの志保が止める。主人である千鶴と同じものを――志保が用意したものだ――食べるよう、プロローグでは伊織に、エピローグでは茜に促す。ただそれだけのことだ。
 プロローグでは、なぜ伊織がそんな目に遭っているか知る由もない。千鶴が伊織を娘だと遭難者たちに紹介した時、プロローグでの待遇を目の当たりにした我々がその言葉を信じられるはずはない。仮に事実だったとして、尋常な関係ではないと容易に理解できたはずだ。その関係は冷酷な殺人者の本性を顕にしたメイド、志保の口から示唆される。「ちゃんとしないと、私がご主人さまに叱られるんです。ちゃんとしないと……」声音からして、彼女も恐怖する者の一人である。そしてそれは千鶴の支配構造に基づくものだ。この孤島では二階堂千鶴が食物連鎖の頂点に君臨している。志保は怯えるだけの理由がある。眼帯の下に隠されたものが「叱られた」ことを物語る。
 彼女は叱った。秘密を知った秋月律子を。
 言うことを聞かなかった水瀬伊織を。
 逃げ出した桜守歌織を。
 島原エレナを。
 野々原茜を。
 北沢志保を使って。

 ドラマの主題歌である『クルリウタ』は、歌詞の通り何らかの事象が繰り返されることを表している。そしてエピローグでは、伊織が元いた場所に茜が座り、食卓を囲み、同じものを食べるのだ。
 二階堂千鶴は娘と暮らし、食べ、叱ることを繰り返している。叱られるということは、伊織のように身体を切り刻まれるということだ。その刃から逃れることのできない場所に、野々原茜は誘われた。孤島の断頭台に縛り付けられ、怯えながら死を待つのだ。
『誰ソ彼ノ淵』は、二階堂千鶴が繰り返してきた理のある一部分に過ぎない。

 ……とまあ、ろくな考察もない感想文はここまでにして。
 一番話したかったのは、作中の「死」についてだ。死というよりは死に方だろうか。
 それはまあすごかった。今までで一番過激だ。『屋根裏の道化師』の比ではない。アイマスの看板提げながらアイドルの死体までぶら下げるなんて本当に思わなかった。
 よくよく考えれば、死体をぶら下げたり引きずってきて投げたりなんてホラー映画じゃ日常茶飯事である。アイドルが主演の映画だって多分あるだろう(詳しくないが)。ただ、それは役の上での話だ。あくまで別人、別人格の死だ。
 だが今回は違う。アイマスの看板ぶら下げて……というのは少し近いか。演じるアイドルたちはみな本名はそのまま、世界観と役割だけを得てドラマに現れた。『屋根裏の道化師』や『End of the world』のように別人ではなく、本人のアイデンティティを持って(この辺の話、前回の「田中琴葉の殺人の才能」に繋がってる)。『誰ソ彼ノ淵』では、役とアイドル本人が近すぎるのである。これまで劇中劇で殺されてきたアイドル(が演じる役)というのは、(役柄が演じるアイドルのアイデンティティを受け継いでいるかのような)「アイデンティティの侵蝕」とも呼べるような例でも――例えば『Melty Fantasia』ではアンドロイドだったり、『屋根裏の道化師』では時代背景や名前が異なっていたり――多くの点で、モデルとなった人物から離れている。やはり別の世界の出来事なのだと思わせることができる。
 だが名前とは、アイデンティティの最大要素のひとつだ。いくらフィクションだ別人だと言い聞かせたところで免れ得ないものはある。

 北沢志保が水瀬伊織を滅多刺しにし、秋月律子のハラワタをぶち撒けて木に吊るし、桜守歌織だったものを投げ捨てる。これが字義通りに繰り広げられるのである。
 字義通りに、だ。

 所詮劇中劇とかフィクションだと思うかもしれない。しかし、そこにある感情は本物になる。することができる。
 当然だが志保に敵愾心みたいなものを抱くとかそういう話ではない。我々はアイドルたちを知りすぎている。だからこそ音だけで何が起きているのかを知り尽くしてしまう。そこにあるのは野々原茜と島原エレナが受けた衝撃、恐怖、憎悪、萎縮、悲観――ふたりの感情であり、ふたりがよく知る者達、我々もよく知る者達の死を共有する。ふたりと我々の感情はひとつになるのだ。感情移入を誘う方法としては些か卑怯ではないか? なんちゅー事をしてくれたんじゃ。
 あまりの衝撃にぶっ飛んでしまった人もいるだろう。だが感情のバトンは確かにふたりから差し出されている。我々はその恐怖に没入することができる。そして、同じ断頭台の前に立つことも。

 以前の拙稿「田中琴葉の殺人者としての才能を屋根裏の道化師に見る」でも似たようなことを散々言ったのだが、やはり投票企画においては「アイデンティティの侵蝕」を利用した作劇が非常に効果的に作用していると思う。これは「定められた役柄に合いそうなアイドルを選んで投票する」という企画の性質自体が関係しているが、アイデンティティとは性格だけでなく出自や運動能力なんかも含んでいる。劇中では明かされなかった部分や曖昧な設定を、我々が「アイデンティティの侵蝕」を利用して補完することができる。
 正答である必要も、それを公式が示す必要もない。受け取った側が納得すれば。我々がいくつでも回答を用意できればそれでいい。ファンとかPの交流が生まれることが、コンテンツにとって良いことなのだ。悩みすぎて破滅するのも考えものだが。
 例えば人肉食では? と議論を呼んだ千鶴のカード。ヒントになりそうな描写はドラマの中にいくつかあった。食事の準備を任されている志保が殺した人間を「獲物」と呼ぶこと、そして人間の解体に慣れていそうな描写。島の反対側にある「牧場」がそうだ。伊織が殺された人物のものと思しき墓を立て、志保の食事を拒否している点も、自分が食べさせられているのは人間だと気づいているからかもしれない。
 ところで「二階堂精肉店」をご存知だろうか。当該店舗のロゴが入ったTシャツを着た二階堂千鶴の家族と思しき人物が現れて千鶴を撮影していること、お母……シェフの特製コロッケなどから存在を疑われている実家の肉屋、という概念である。
 そう、精肉だ。
 そして、島には牧場がある。
 もう何も言うまい。
 こじつけだろ、というのも解る。だがこじつけるにはあまりに都合がいいじゃないか。
 そもそも牧場が家畜ではなく人間を育てている根拠は? というと、推測できないわけではない。志保が最初に四人と会ったとき、「数が多い」と発言している。これは反撃されるか、始末しきれず逃亡される可能性を考えている。しかし見慣れない人間が突然現れたときに真っ先に殺す手順を考えているということは、日常的に屋敷の外で接触した人間を殺しているということでもある。彼女は殺した人間(桜守)を「獲物」と呼んでおり、逃げ出した人間が主に狩猟の対象ということだ。孤島には他にも人間がいると見るべきで、そのような施設は牧場しかない。
 他には――やめておこう。結論がどんどん先延ばしにされていく。
 考えていること、膨らませたい妄想は今胸の中にいくらでもある。頭の中で眠っているこれまでのミリオンライブから得たものが、これからどんどんその種を芽吹かせていくのだろう。そう考えたとき、私は表題のように閃いたのだ。

 ミリオンライブに初めて触れる人に、最新CDだからといって安易にTC03のCDを勧めてはいけない。

 別に誰かの行動を咎めようとかいう考えではない。確かに初めて聴く人に勧めるには過激すぎておかしな印象を与えてしまう(まあ、ミリオンライブ自体が他に比べると多少おかしな部分があるのは事実だと思う。劇場の魂とか)かもしれないが、私が言いたいのはそういうことではない。ただ、自他や次元、アイデンティティの境界を曖昧にされた世界にあって、親しい者達が狂い、乱れ、慄き、死んでいくさまを目の当たりにするとき、彼女たちのルーツを知らないというのは勿体ない。それは非常に好ましくないのだ。私が受けた衝撃は、受け取った感情は、野々原茜、島原エレナ、桜守歌織、二階堂千鶴、北沢志保、そして水瀬伊織と秋月律子を知っていたからこそのものだ。
 所詮は劇中劇だ。女優たちの演技に感嘆し、練り上げられた世界観と舞台に戦慄することだけでも十分なのかもしれない。だがそれは、聴くたびに何度でも反芻することができる。だからこそ、初めて『誰ソ彼ノ淵』の世界に降り立ったときの体験がより大きく、強烈で鮮烈なものになってほしいと思う。

 最後に、掛け値なしのホラーを生み出してくれたすべての人たちへ感謝を。



コメント

たろー
No.1 (2020/08/08 23:34)
「知っているからこそ」それは確かに、このドラマを心底のホラーたらしめている要因と言えますね……
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