富士ゼロックス時代の友人が、げらげら笑いながら電話してきた。
おい、お前、ウィキペディアの河野太郎のページ見たことあるか?
パソコンで自分を検索して、友達と二人で爆笑した。
「河野太郎」のウィキペディアの富士ゼロックス時代をみたら
『社会人時代[編集]
帰国後、1986年(昭和61年)に富士ゼロックスに入社[10]。国際事業部に配属され、サテライトオフィスの実験を担当。1991年(平成3年)富士ゼロックスアジアパシフィック設立と同時に2年間のシンガポール勤務などを経た。河野談話により、長男である太郎の勤務先である富士ゼロックスにも抗議が殺到し、同社を退社(退社したことを知らせるポスターを正面玄関に張り出したほど)。1993年(平成5年)、日本端子に転じた。自動車や電気機器の部品メーカーで開発生産や海外輸出を担当[11]。』
ジョージタウン大学を卒業後、帰国して富士ゼロックスに入社したことは
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