ミリオンドットゲームス(旧:ツクールMVでゲームを作る記録)

問いの中で得る肯定とその行程の

2020/11/17 05:52 投稿

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 あれほどやりたかったゲームづくりが、やりたくないわけじゃないのになぜこれほどまでに遅々として進まないのか。理由は数々挙げられるけれど、もう一度自分自身に根本から問い直してみることにした。

 幼い頃からファンタジー作品を読むのが好きだった。
 きっかけは本ではなく映画だった。ネバーエンディング・ストーリー3部作。後に『アウトブレイク』や『トロイ』を撮るヴォルフガング・ペーターゼンが監督した1作目を観た僕は夢中になった。テレビ放映されたものを親がVHSに録画してくれていて、映画の主人公の少年バスチアンと一緒に「走れ! アトレイユ!」と叫ぶほど、擦り切れるくらい何度も何度も繰り返し観たものだった。
 それから原作があることを知った僕はエンデが書いた『はてしない物語』を読み、『モモ』を読み、トールキンの『指輪物語』や『ホビットの冒険』、CSルイスの『ナルニア国物語』、フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』、ダイアナ・ウィン・ジョーンズのクレストマンシーシリーズ、ロフティングのドクタードリトルシリーズ、SFに分類されるのだろうけどジュール・ヴェルヌの『海底二万海里』や『神秘の島』、もう児童ではない年頃になってもハリーポッター最終巻まで読んだ。
 ハリーポッターが出た頃にはもう読む文学が児童文学から次のステップへと移っていく時期だったからそうでもなかったけど、ファンタジー作品を読んでいる時になにより好きだったのは没入感だった。
 この世界とは違う世界があって、そこに自分も行ったかのような錯覚を覚える快感と、空想の中でその世界に身を置いて冒険することも大きな楽しみだった。……中つ国にはあんまり行ってみたいと思わなかったけど。

 その後僕は、本の世界に没入するという行動の先へと進んでいく。それは、自分の頭の中で世界を構築して物語にするという創作活動だった。
 本格的に小説(いま振り返って正直に申し上げれば、とても小説とは呼べないような代物)を書いたのは中学生の頃だった。当時は電撃文庫を中心とした「ライトノベル」が流行っていて、電撃文庫大賞にも一度だけ応募したことがある。
 考えてみればそれ以前にも、ポケモンの人形を使って動かしながらごっこ遊びをしたり、レゴブロックが好きで誕生日のたびに買ってもらい設計図通りに作った後で自分がより好む形に作りかえてその中で人形を配置したり動かしたりするような、「自分の頭の中の世界を形にする」ということに楽しみを見出す子どもだったと思う。
 それはもっぱら立体のもので、自分の手で動かしながら即興で思いつくまま物語を展開させるというものだった。即興だったせいか、自分が当時ごっこ遊びの中で構築した物語は一切覚えていない。
 文章としてパソコンに残している以前の物語で唯一ぼんやり記憶しているのは「マリとおかあさん」シリーズだ。内容はほとんど覚えていないが、姉が夜、居間のテレビでファミコンのドクターマリオをプレイしているところに母がいて、弟がいて、そこでなぜか僕が即興で物語を口頭で語って聞かせている絵面を思い出す。マリが主人公の日常系アニメのような話でその時々の展開があったのだが、一番家族にヒットしたのは母親とケンカしたマリがなぜか巨大化し、同じく巨大化して怪獣となった母親と対決する話だったような気がする。そしてその後マンネリ化してしまい、姉にすっかり飽きられた頃に自分も飽きて話さなくなったことは覚えている。

 とにかく僕は空想の物語や空想の世界を自分の頭の中でつくり上げることが好きだった。そしてそれは今でも続いている。いま思えば、ミリオンドットゲームスの活動に行き着くのは必然だったようにも思える。
 ゲームにしていて楽しいことは、当然のことながら「自分の頭の中の物語」が形になって動くこと。ではその逆にゲームをつくっていて苦しいことはといえば、「自分の頭の中の物語」がなかなか形になってくれない。そのスピードの遅さだ。
 僕にとって最もスピードが早くて効率的な方法は口頭で語ること。「マリとおかあさん」でやっていた手法だ。これはとにかく早い。が、思いつくままやっているせいで後から再現できない。今の自分であれば機械的に録音することは可能だけど、それを聴き直したとして果たしてカタルシスはあるだろうか。大抵即興で押し進めた物語には脈絡しかなく、全体としては破綻していることが多い。
 次にスピードが早いのは、目の前に構築したセット(レゴブロックなどでつくったもの)の中でキャラクターを動かすこと。セットの転換さえなければ非常に早い。しかし、場面やキャラクターがセットや手に持つ人形の造形に引っ張られるため、展開は限定的になってしまう。セットを別で用意したり作りかえたりすることも可能だが、それには時間がかかりすぎるため、物語を即興で続けるには向かない。その代わりビジュアル面がはっきりと立ち現れているから物語はかなり強くイメージできて動かしやすい。
 僕は一度だけ、レゴブロックを動かして展開する物語を本にしたことがある。物語をつくり、場面に分け、それに合う写真をカメラで撮り、現像したものをスケッチブックに貼って脇に文章を描くというフォトブックのようなつくりで、今思えばそれは僕にとって初めての物語を記録して残すという作業だった。最終的に夏休みか冬休みの自由研究として提出したのだが、作っている最中に僕は飽きてしまっていた。そのせいで物語は最後のほうがやっつけ感のある終わりになったことを覚えている。とにかく僕の物語熱には賞味期限があって、一度冷めてしまえばその物語に再び戻ることは簡単ではなかった。今でもそうだ。
 それから僕がしたことは先述した小説という体で物語を書き起こすことだ。これはずいぶん長いことやったし、完結したものは少ないけれど書き出した物語の数だけは数え切れないくらい存在している。
 僕の頭の中にあるストーリーやキャラクターの会話を文字に書き起こす作業はそれほど難しいことではない。なぜならそれらが言語的で、特に会話は僕の頭の中で実際に彼らが喋っていることを書き写すだけなのだからストレスもほとんどない。
 問題はその背後にある世界を説明したりキャラクターのビジュアルを描写したりすることだ。これは本来言語的でない分、とてつもなく難しいしストレスが溜まる。自分自身の技術力の至らなさや勉強不足のせいでこれだと思える表現が出てこなかったり、読み直した時に単調で繰り返しが多かったりするとたまらなく嫌になるし、「僕の頭の中の物語はこんなものではない」という気持ちが大きくなっていくせいでどんどんその物語を書く熱が冷めていく。
 だから書きかけで死んでゆく物語があまりに多い。今も読み直せばその世界のことは思い出せるし、形にしたいと思うこともあるけれど、書きかけで投げた時の苦しみも覚えているしまたそれを味わってでも形にしたいかと言われればそちらに天秤が傾くほどでもない。
 そんなわけで、物語を文章に書き起こすという手法もほとんどが壁にぶつかっては死んでいったものばかりだし、今はもう物語を書き出した時には物語に対する熱と今ある構想の大きさと実現にかかる時間とその熱が冷めるかもしれない時間を頭のどこかで整理して天秤にかけていて、メモ程度で終わらせることも多い。時間が有り余っていた中学高校時代ですら投げ出していたものを、社会人になってからやることの難しさを知っているからというのもある。自分に残された時間の重みがリアルな暗さを持って差し迫っていることもある。でも、文章にして書き起こす手法では自分が描きたいものを描ききれないという根本的な技術的問題を抱えていることが最大のネックなのかもしれない。

 そんな中で、RPGツクールMVというツールを使ってゲームというフォーマットでインスタントに世界を構築してキャラクターを動かした時の感覚は新しく、また懐かしくもあった。
 文章で描く部分もあれば、ビジュアルに頼る部分もあって、なにをどちらに振るかはこちらの裁量に委ねられている。具体的に言えばすべてをキャラクターに喋らせることもできるし、逆に一切喋らせることなくイベントなどの体験を通して感じてもらうように仕掛けることもできる。それは新鮮でありつつ、思い起こせばレゴブロックでつくったジオラマで人形を動かしている時の作劇に近いものがあった。
 そう、あの時の感覚に近いのだ。物語を現実にするにはまずキャラクターたちが立つ実在の世界を構築する必要があって、レゴブロックでジオラマを組むようにマップチップを使ってマップをつくる必要がある。
 世界をつくりあげるその作業は結構楽しいけれど、時折面倒になったり嫌になったりする。その原因は2つあって、1つはシステムの問題。既存のゲームエンジンである以上制約があって思い通りの動作が実現できず妥協せざるを得ないことがある。これはかなりのストレスになる。もう1つはすでに書いたようにスピードの問題。はやく物語を進めたいのに、今はそれを中断して物語を進めるためのマップを作らなければならなくなる。今熱が最も高い部分は世界を構築することではないのに、同じくらい熱が必要なその作業にフォーカスしなければならないストレスがある。
 ゲーム制作に関わる様々な作業の中で僕が最も好きなのは、物語、つまりシナリオや設定をつくることと、ゲームにそれを入れ込むことだ。これは揺るがない。なぜならそもそも物語があって、それを形にする手段としてゲームを選んでいるから。
 つまり、本質的に言えばゲーム制作の過程で生じる他の作業(たとえばグラフィック製作やサウンドクリエイションや選定作業、レベルデザイン、システム設計、ゲーム内イベントの管理、不具合のチェック、コーディングなど、書ききれないほど多岐に渡る細かなものも含めた諸々の作業)は僕にとって「自分の頭の中の物語を形にする」ことの障害と言っても過言ではない。だからこそ嫌になるし、実際に放り投げたりしている。
 とはいえ、嫌なことばかりではない。
 システム設計などは世界の根幹をつくる作業だし、物語を構築していくことと相互作用を及ぼしたりして面倒だけれど楽しい。
 グラフィックの製作も技術がないから思うようにはいかないものの、自分が好きなキャラクターが自分の手で動く様を見られるこの上ないよろこびがある。
 不具合のチェックも結構たのしい。元々僕はレトロゲームと今日呼ばれるような時代のゲームに親しんできたから、ゲームが想定していないイレギュラーを発見したり再現したりして楽しんでいたことがあって、不具合を見つけた時はなぜかよろこんでしまう。ただしそれが致命的な不具合で公開中のゲームに実装されていて修正がとても面倒なものだったりすると、ものすごくげんなりする。不完全な状態で公開するものではないなと、当たり前のことを痛感する。
 僕はなるべく障害(作る上での障壁)を取り除きたかった。なぜなら、僕の熱が障害によって簡単に冷めることを知っているから。だからRPGツクールMVを選んだ。既に基幹システムがある。ノウハウがネット上にある。グラフィックやサウンド素材が豊富にある。有志がつくった素材やプラグインもある。公開する環境も整っている。まさにこのゲームエンジンがウリにする「誰もが簡単にアイディアを形にできる」という特徴が目的と合致していたからだった。

 ということで、僕の中で気持ちが乗りやすい作業と、どうも気が進まない作業があるのは非常にわかりやすいカテゴリ分けで説明できそうだ。
 先ほどの話の繰り返しになるようだけど、たとえば僕のゲームづくりの根幹に関わるストーリーテリングとキャラクター造形に関する部分とそれ以外という分け方になるだろうか。
 まずキャラクターに喋らせたりナレーションにあたる地の文、あるいはゲーム内で読めるテキストなんかは一番楽しい。キャラクター設定に関わるシステム設計と実装も楽しい。キャラクターに動いてもらうための歩行グラフィックを作るのもうまくいかない苦しみはあるけど楽しい。イベントの設計と実装も楽しい。不具合のチェックもゲームやってるだけだから楽しい。
 逆にゲーム性に関わるレベルデザインは全く楽しくない。できれば誰かにやってほしい。マップ作成やサウンド選定は、自分で素材をつくりだすことが難しい以上「限られたものから選ばなければならない」という妥協に妥協を重ねていく作業になってしまって結構苦しい。
 そういう楽しくなくて苦しい部分はもし他にやってくれる人がいたら任せたいと思う気持ちもありつつ、任せるにはこちらのビジョンを正確に伝える必要があり、それはそれで難しい。
 なにより僕がミリオンドットゲームスをソロプロジェクトとしてやっていることの意味がなくなる。

 そういえばミリオンドットゲームスについていろいろ詳しく書いたようで一番大事にしてる部分を書いていなかった。それは、書かないほうがいいかなと思った気持ちがあったからというのもあるけど。
 ソロプロジェクトでやっている大きな理由は2つある。
 一つは実質的な理由で、誰かを巻き込むには僕が気まぐれすぎること。巻き込んだ時の責任を負いきれないから一人でやっている。
 もう一つは思想的な理由で、誰かを巻き込んだ場合、その人の時間やそれまで時間をかけて培ったスキルをいただく以上対価を支払わなければならないと考えているから、わかりやすい対価としてお金を渡すことになる。このプロジェクトでつくっているゲームが僕のオリジナルであれば話は変わるけれど、ここで扱っているのは誰かがつくったものだ。それをお借りして勝手に遊んでいる。だから僕はこのプロジェクトで僕と他人の間で一切お金のやり取りを発生させたくない。例外は製作するために使用するツールや素材を購入する代金だけ。これだけは今後も変わることはない。
 だから、さらに言えばそれらを全部理解した上でこのプロジェクトに「ゲームが完成すること自体が対価になる」と思って参加する人が現れたとしたらこれがソロプロジェクトでなくなる可能性はある。

 でも少なくともいまは、そういう理由で一人でやっている。だから気が進まない作業もすべて一人でやっていく必要がある。
 「ゲームが完成すること」つまり「物語が帰結すること」のよろこびと、「実作業のよろこびや苦しみ」が戦っていて、だから遅々として進まないことが多い。
 これが仕事だったら話は変わってくる。つまり最終的にお金になるのであれば、あるいは誰かとの金銭的なやり取りがあり、期日を設けて完成させなければならないものだったならば、歯が割れるくらい食いしばって気が進まない作業もやっていただろうけど、その道は選ばなかった。というかもしそっちを選んでいたら、とっくの昔に僕はこのコンテンツに対する愛情を失っていたと思う。
 僕はミリオンライブ!が好きで、ミリシタが好きで、キャラクターたちが好きで、こうだったらいいなとか見えない時間ではこうなのかなとか想像できるのは好きだからで、それが原点であり失くせないポイントであり言ってしまえばそれがすべてなんだ。はずい。
 いやもうずっと最大の熱量で好きで居続けているファンからしたら僕なんてぺらっぺらのぺーぺーでそんなことはわかっているけど、それでも僕は僕なりの形でずっと好きという感情を持ち続けている。なんなら好きの感情をこじらせてしまって、初代ゲームプロデューサーがいなくなった後のアプリが僕の方をもう向いてくれていないと感じて「なんだよ、じゃあもういいよ」ってすねてしまうくらい好きなんだと言いたい。ちこぴが好きだと言いたい。ミリシタとの出会いとゲームの中でたくさんのものをくれて本当にありがとうと言いたい。新しい家族の一員とどうか末永く幸せでいてくださいと言いたい。
 正直に言えば、それまでの僕は女の子ばかりが出てくるアニメやゲームに好意的な印象を持っている人間ではなかったし、あまり触れてもこなかった。リズムゲームなんて最も苦手ジャンルだった。だけどミリシタは好きになれた。あの時のあのアプリがコンテンツが僕を好きにさせてくれた。声優さんのライブに行ってみたいと思う未来が来るなんて、チケットの抽選申し込みをしたほんの数ヶ月前の自分には想像もできなかった。それくらい好きにさせてくれた恩があるし情があるしリスペクトがあるし、なんだかんだありつつも今も好きで触れ続けているのはそこに強い気持ち強い愛があるからなんだと言いたい。本家には興味なくて好きなのはでんぱ版だけだと言いたい。なんの話だ。
 とにかく僕には手放すことのできない気持ちがあって、それを裏切らないかどうかが行動基準になっていて、その結果が今のミリオンドットゲームスのあり方につながっている。
 さらに言ってしまえば、好きなったのも入れ込んでいるのもそこに恩を感じているのも妄想爆発させているのもゲームにしたいと思って作り始めて向いてない作業で苦しんでいるのもぜんぶ「手前が勝手にやってることだよ」というだけの話で、それはすべて僕自身がケツを拭ける範囲に留めなければならないというくだらない信条を持っている。
 だから、これは矛盾に感じる人がいるかもしれないけど、僕は自分がつくったゲームが誰にもプレイされることなく終わっていいと思っている。なぜならこれは僕が見たいものをつくっているだけで、ここにある欲求は「物語を形にしたい」ということ、それしかないから。
 じゃあなぜわざわざ遊べる状態で公開しているかと言えば、それは「せっかく作ったんだし遊べるんだから、奇特な人が遊んでくれりゃいいかな」というぐらいの気持ちで始めていることで、「でも公開するんだからある程度の責任はとらないとな」と思って説明文を書いたり不具合の対応をしたりしている。公開して見てもらおう遊んでもらおうが最初にあるわけじゃなくて、頭の中にあるこれをとにかくなんとかして形にしたいというほとんど衝動のようなものがあるだけなのだ。本質的には。
 だから僕はつくったゲームを作品などとは呼ばない。そんな高尚なものではないしそう呼べるほどの完成度もない。小説もプラットフォームが選んだ言葉だしわかりやすく伝えるためにそういう言葉を選んだだけで小説の体を成していると思ったことは一度もない。そんな人様に胸を張って見せられるようなものではない。でも、ただ一点だけ、僕はそこに「好きだ」という気持ちだけは目一杯詰め込んでいる。だからファンメイドのゲームと呼んでいる。

 余計なこと書きすぎて長くなってしまった。終わろう。

 僕はこれからもゲームづくりをやめないだろう。なぜなら、頭の中にある物語を形にしたいという衝動・欲求が消えることはないから。ただし、その熱を行動にして持続させることは非常に難しい。だからこうして遅々として進まない苦しみを抱えることになる。
 ある時、「続きを楽しみにしています」と言ってくださったプレイヤーの方に僕はこう答えた。「なんとか死ぬまでには完成させます」
 頭の中のあれやこれを残したまま死ねない。それだけは確かにある。だから僕は僕自身とたたかいながら、ゲームをつくり続ける。
 ミリオンドットゲームスは僕のソロプロジェクトであり、ライフワークであり、ドキュメントであり、恥ずかしげもなく世間に晒したラブレターである。
 読まないでほしい。でもせっかく書いたから読んでほしい。でも恥ずかしいから感想あんまり伝えないでほしい。
 そんな矛盾ばかりを抱えたプロジェクト「ミリオンドットゲームス」が、こうしないと生きてゆけないたぬきという愚かな一個人が、このように居場所を持つことを社会の片隅で構いませんのでどうかお目こぼしいただけますと幸いでございます。

 長文、乱文、失礼いたしました。
 またどこかできっとお目にかかりましょう。それまでさようなら。

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