……いやいや、待てよ。なんだ、この気まずい雰囲気は。
洋風の食事机を挟んで対面に座っている麻淋さんは、さっきからずっと顔を俯けっぱなしで、一向に俺との会話を始める気配を見せない。時折ペットボトルのお茶を飲んでは、スカートの端をいじっているだけで、むしろ構って欲しくなさそうなオーラすら放っている。
どうやら彼女は、想像以上に人見知りするタイプらしい。いや、別にシャイな性格は構わない。ズカズカと他人の心に踏み込んでくる女よりは、全然マシってもんさ。
解せないのは、そんな麻淋さんがどうしていきなり結婚を申し込んできたのかってことである。恋愛には消極的だが、結婚には積極的ってタイプなのか? それとも、奇跡的に俺を見て運命を感じてくれたのだろうか? ……どっちも、非常に考えにくい可能性だけどな。
実際、俺がいくら考えても答えなんて見つけられないだろうね。ここはやはり、当の本人に直接尋ねてみるべきなんだろう。ところが、その彼女は一切口を開いてくれない訳であって……ああ、いわゆる堂々巡りってやつだぜ、おい。
嫌な沈黙に包まれる新婚夫婦を救ってくれたのは、来訪者を告げる呼び鈴の音であった。
それでも動こうとしない麻淋さんを前に、俺が首を傾げながら席を立つ。引越し初日から新居を訪ねてくるような客にまったく心当たりがなかったからな。
ドアを開けると、そこに一人の若い女性が立っていた。
「どうもぉ! 初めましてぇ!」
赤いロンTに黒いスウェット姿という彼女は、続けてやけに甲高い声で自己紹介してきた。「隣の部屋に住んでいる、森(もり)仁(ひと)美(み)です! ヨロシクねぇ!」
無造作に後ろで束ねられた長髪を揺らしながらケラケラと笑う仁美さんとやらは、切れ長の瞳が印象的な美人だった。年齢は、俺と同い年か、ちょっと上くらいかな。
「ああ、どうも、初めまして」
丁重に頭を下げる俺。「今日引っ越してきた、天野です。こちらからご挨拶に行かなければいけないところを、わざわざすみません」
「いいっていいって! こっちこそ、バタバタしてる時にごめんなさいね! ……で、こちらは?」
彼女が俺の隣を手で示す。気がつけば、いつの間にか麻淋さんが横に立っていた。
「ええっと……その……彼女は僕の妻の、麻淋さんです」
結婚したっていう実感がまだ全然ないから、こうして説明するのもなんだか変な感じだな。「今日、入籍しました」
「おお! じゃあ新婚ホヤホヤって訳じゃん!」
大袈裟に驚いてみせた後、仁美さんはただでさえ細い目をさらに細めながら俺達を見比べた。「いやぁ天野さん、あんたとんでもないモノをゲットしちゃったみたいだねぇ!」
「とんでもないモノ?」
「そうだよ! こんなに可愛らしい奥さんを見つけるなんて、見かけによらずあんたもやるわねぇ、見かけによらずさ!」
おいおい、二回も言われたぞ。そこまで俺はモテないように見えるのかよ。まぁ、そうだろうけどさ。
「は、初めまして。鈴木麻淋です……」
篭ったような声でそう切り出してから、麻淋さんは何かを思い出したように首を横に振って、「……あ、間違いました。天野麻淋、です」
いやぁ、なんて初々しさなんだろう! 照れるように顔を俯ける彼女を見て、むしろ俺の方が照れてしまったくらいだったさ。
「麻淋ちゃん、ね。覚えとくわ! ……おおい、こうたろう! ちゃんとあんたも挨拶しなさい!」
仁美さんが、横を向いて手招きを始める。
てっきり彼氏でも紹介されるのかと思っていた俺は、しばらくしてから眼前に現れた人物を見て、かなり意表をつかれてしまった。
それは、幼い男の子だったのだ。
「これは、うちのガキンチョの光太郎(こうたろう)。今年小学校に入るのよ」
まさか、小学生の息子さんがいるお母さんだったとはねぇ。まさしく、人は見かけによらないもんだ。
母親から促されて頭をチョコンと下げたその愛くるしい少年は、無邪気な表情を浮かべながら俺達を見つめてきた。いや、厳密に言えば、何故かずっと麻淋さんだけを凝視していた。
「この子、ちょっと人見知りが激しくてねぇ……」
何一つ言葉を発しない光太郎くんを見下ろしながら、苦笑する仁美さん。「ま、慣れたら結構喋るんだけどさ」
うちの奥さんも、ぜひそうであってもらいたいね。
「あいにく旦那は仕事に出かけていないんだけど、とりあえずまた改めて挨拶に来るわ! ああ、わからないことがあったらなんでも気軽に聞いてちょうだい! スマホの番号渡しとくから! ……もっとも、わたし達だってつい一ヶ月前に引っ越してきたばかりなんだけどねぇ! ハハハハハ!」
スマホの番号とLINEのIDの記された紙を俺に素早く手渡して、仁美さんと息子さんは帰っていった。
なるほど、要するに賑やかな隣人がいるってことか。まぁ、悪い人ではなさそうだけどさ。
突然の来客が去った後、我々の間にはまた静寂が漂った。振り出しに戻ったようだ。
「……そろそろ腹が減りましたね。出前でも取りましょうか」
おずおずと切り出す俺。「麻淋さんは、何がいいかな?」
「え? 私ですか?」
いきなり話し掛けられて驚いたのか、少しひきつった笑みを浮かべる麻淋さん。「そうですね……私の好きなものなら、何でもいいです」
そりゃあそうだろうよ。
そこから十分間、なんとか彼女の好きな食べ物を訊き出そうと頑張ってみたものの、結局徒労に終わってしまった。要領を得ない返答に辟易した俺が、独断で近くの『芸亭(げいてい)』という料理屋に鰻重の特上を注文する。新婚初日なんだ。景気良くいかないとな。
ベースとボーカルしかいないバンドのコンサートみたいに盛り上がらない会話と食事を経て、やがて夜が訪れた。そろそろ就寝の時間だ。
――そう、新婚初夜。
もう一度言おう。新婚初夜である。
……あえて長々と説明しなくても、俺がこのフレーズを強調する意味くらいはわかるよな。小学生のカップルが迎える初めての夜ではないぜ。れっきとした夫婦が迎える、初めての夜なのだ。結婚どころか交際している感覚すらなかった俺でも、寝室に置かれた二つのベッドを見た途端、さすがに胸がひどく高鳴り始めたさ。ベースとボーカルしかいないバンドに、高速ドラマーが参加してきたって感じだ。ようやくロックっぽく、もとい、夫婦生活らしくなってきたじゃないか。
……そして、俺は寝た。
婉曲的な表現ではない。あろうことか、本当に一人で眠ってしまったのだ。
風呂から上がった麻淋さんが、可憐なパジャマ姿で寝室に入ってくるところまではかろうじて覚えている。しかし、それ以降の記憶がまったくないのだ。ひらたく言えば、その時点で俺は睡眠に入ってしまったのだろう。
それにしても、ひどいザマだな、おい。いくら慣れないことの連続で疲れていたとはいえ、新婚初夜に早々と寝てしまうだなんてさ。夫として、いや、男としてあまりにも情けない体たらくだぜ。
とはいえ、だ。済んでしまったことは仕方がないってもんだろうよ。だいたい、二人きりで過ごせるチャンスがこの日だけって訳ではない。むしろ、これから毎日続くことなのである。
ああ、そうさ。この時点の俺は、まだそんな甘っちょろいことを考えていたのだった。
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