――月川 早苗(つきかわ さなえ)は笑っていた。

 

 シャギーの入った、肩を隠すにはやや短い長さの黒髪。

 面積は大きいのに、鋭利さをも感じさせる瞳。

 何かの方向を示すかのように、まっすぐ通った鼻筋。

 シャープではあるものの、見る角度によっては幼い印象も受ける輪郭。

 そして、空に向けてすらっと伸びるたおやかな体と、それに纏う、水色と緑と薄紅色で構成されたモザイク調のワンピース。

 ……確かに、眼前の大画面では、幾千もの発光体によって、月川早苗が電子的に再現されていた。

 映像の中の彼女は、眩いばかりの陽光を余すことなく受け止めるように、ゆっくりと歩を進めている。

 もしこの時の感想を本人に尋ねたならば、『太陽が照明代わりになってくれたねん』とでも言うに違いない。あいつはそういう女だ。

 いや、そういう女だった。

 たぶん、というより、まず間違いなく、この映像が撮影された季節は初夏だろう。

 俺がそう推測した理由は簡単である。早苗がこの髪型に変えたのが今年の六月中旬で、なおかつ今が七月下旬だからだ。

 そんな安易な推理を繰り広げているうちに、画面上では新たな色彩が形成され始めた。

 ……それは、やけに見覚えのある光景でもあった。

 

 月川早苗は、悠然とした足取りで、その公園――通称、『埴輪(はにわ)公園』に入ってきた。

 

 そこに映し出されていたのは、俺の住んでいる家から歩いて二十分くらいの距離にある、寂れた公園の風景だった。

 敷地面積は、野球やサッカーがギリギリ可能なレベル。なのに、ここで野球やサッカーをしている奴なんて、今まで一度も見たことがない。

 その原因として真っ先に思いつくのは、公園のちょうど中央辺りに立っている、でっかい一本の木であった。野球をする際には、攻撃側にとってあまりにも邪魔すぎる四人目の外野手が存在し、サッカーをする際には、双方のチームにとってあまりにも鉄壁すぎるディフェンスが存在するというグラウンドで、誰が好んでプレイしたがるというのだろう。

 しかし、それ以前にもっと大きな、あるいは哀しい原因があった。

 そもそも、この公園を訪れる人間自体が、ほとんどいないのである。

 

 ふいに、早苗が立ち止まった。

 せわしなく視線を動かす彼女。

 そして、早苗はくるっとその場で一回転した後、大声でこう言った。

 

「ああ、なんて良い天気なんやろ! 絶好の散歩日和やん!」

 

 ……なんや、そりゃ。

 モニターの両側に設置されたスピーカーから聞こえてきたのは、歌でもないのに明らかに調子っぱずれだとわかる、早苗の声だった。いつもは凛としていて張りのある彼女の声が幾分か震えていたのは、なおかつ幾分か裏返っていたのは、初夏だというのに寒かった訳でも、元気そうに見えるのに体調が悪かった訳でもあるまい。察するにこの時の早苗は、普段の自信たっぷりな性格に変調をきたしていた――簡単に言えば、緊張していたのだろう。

 だとしても、これはひどすぎる。もし俺がこの場にいたのならば、絶対に撮りなおしを要求していただろう。少なくとも、最低限の礼儀としてこの突っ込みだけは入れていただろう。

 ……そんな不自然な独り言があるかいな!

 

 もう一度、今度は早足で歩き始める早苗。

 

 不自然と言えば、この映像はカメラワークもかなり変わっていた。こういう場合、普通は被写体を正面から撮影するのが常道ってもんだろうに、真横から、しかもかなり至近距離でずっと早苗を捉えているのだ。さては、彼女の体にカメラの電源コードでも繋いでいるのだろうか?

 

「ここに来んのも、えらい久しぶりやな! ああ、ほんまに清々しい天気やわ! うちってやっぱ晴れ女なんかな! だって、ほんまにめっちゃ素晴らしい天気やん!」

 

 おいおい、なんべん同じこと言うねんな? 

 そりゃあ、マンガや小説なんかでは、登場人物が一人でぶつぶつと喋るシーンもよく見かける。だけど、いざ実際にそれを知人が体現している姿をまざまざと見せつけられると、こっちとしては恥ずかしさを通り越して、いたたまれない心境になってしまうものらしい。またどうでもいい知識をこいつから得てしまった。

 とにかく、だ。画面から与えられた情報をまとめると、初夏の太陽が照りつける時間に、早苗は地元の寂れた公園を、たった一人で歩いている様子だった。……まぁ、カメラマンやスタッフを除けばって話だけど。

 

「……あ!」

  

 何かに気がついたかのように、両手を叩く早苗。

 

「そうそう!」

  

 そのまま彼女は、公園の中央に向かって駆け出していった。

 

 

 全速力で走り始める早苗を見て、思わず俺は苦笑してしまう。なんだか、まるで小学生みたいな走り方だったからである。

 月日が経つにつれ風貌が大人びていく一方、あいつの動作はいつまでも子供っぽかった。だけど、走るスピード自体は昔から飛び抜けて速い女でもあった。

 案の定、カメラは早苗の姿を完全に追いかけきれてはいなかった。おかげで、役者だけではなく、カメラマンまでがど素人だということを如実に物語る映像となってしまっている。

 ……やがて、ようやく追いついたカメラが、息を切らす彼女と同時に、茶色の大きな物体をも映し出した。

 

 公園の中央にそびえ立つ、一本の大木。

 そのふもとにまで辿り着いた早苗が、呼吸を整えながら口を開いた。

 

「……この木って、百年以上生きるらしいで」

  

 誇らしげな顔で、大木を摩る早苗。

 ところが、どういう訳か彼女の表情はみるみると曇っていく。

 少し間を空けてから、早苗は大きく首を横に振った。

 

「いえ、そんなことありえへん!」

 

 いやいや、どっちやねん!

 自分で言った台詞をすぐさま自分で否定してみせるだなんて、ひょっとしてこれは、分裂症気味の女性の日常を描いた作品なのだろうか?

 

「別に、構わんけどさ」

 

 かと思えば、そっけなくそう呟く彼女でもあった。どうでもいい話題だったなら、最初から喚かなければいいのに。もはや、完全に情緒不安定な女性である。

 もっとも、実際の月川早苗も、限りなくそれに近い女性ではあったけど。

 

「え……?」

  

 軽く声を発した後、黙り込んでしまう早苗。

 

 たぶん早苗は、“何かを考え込んでいる”という演技をしているつもりなのだろう。別に、俺は俳優心理や映像作品に対する深い洞察能力なんて持っていない。ただ単純に、顎に手をあてながら小難しい表情を浮かべるといった彼女のベタすぎる仕草に、それ以外の解釈を与えられなかっただけの話である。

 

 やがて早苗は、顔を上げた。

 満面の笑顔だった。

 さらに彼女は、カメラに向かって右手を突き出した。

 親指と薬指と小指を折り曲げている、その手を。

 

 わかりやすく表現するのならば。

 ――それはつまり、『ピースサイン』であった。