父親の自殺未遂現場を含む、身内の「生」を記録した写真集『目のまえのつづき』、10人の妊婦による出産と、ある幼稚園の四季を撮影した『いま』に続き、自腹で無人島を貸し切り、300人の男女による絡みを撮り下ろした『そこにすわろうとおもう』を発表した写真家・大橋仁。
時に激動に身を委ねながら、そして時に無情なる静謐に包まれながらシャッターを切る彼の心には、いかなるエロス(=生きる衝動)が沸き起こっているのか。
見たい、知りたい、撮りたい、感じたい、味わいたい...。あらゆる欲望に誠実であり続けてこそ達することのできる境地を垣間みさせてもらった。
人の肉体が放つエネルギーをとらえたい
――1作目、2作目と現実世界における「生」にカメラを向け続けた大橋さんが、3作目では、虚構の世界での「生≒性」にスポットを当てたのはなぜなのでしょう?
自分の生活と関わりのある外的要素を撮ったのが1冊目だとしたら、2冊目は、自分の生活とは直接関係ないものの、人間が生まれてくる瞬間に立ち会ったり、子どもたちのエネルギーに引きずり込まれたりする形で外的要素と関わっているものです。そして3冊目がこれらの作品とどう違うかというと、外的要素を含みながらも、同時に内的要素にも目線が向いているんです。誰しも、自分の内側に意識が向く時期ってありますよね?
ちょうどその当時、撮影の仕事でタイを訪れることが多かったんですが、あるとき「金魚鉢」(=風俗店で客を待つ女の子たちが待機するガラス張りの部屋)が林立するエリアに足を踏み入れたんです。タイには伊勢丹ばりに巨大な金魚鉢がいくつもあるんだけど、実際に目の前に佇むと、「でかすぎでしょ?」ってびっくりしちゃって。
それでわざと裏通りに移ってスケールダウンした店に入ったら、その狭いスペースに40~50人くらいの女の子がぎゅうぎゅうに押し込められてて、入店した途端、彼女らの目線が一気に俺の方を向いてくるわけですよ。そもそも、1:1で誰かと目が合うだけでも相手のパワーって感じるでしょ? それが40~50×2の目玉がこっちを向くわけなんだからパワーの強さが尋常じゃないんです。
それで、なんだこの人が放ってるエネルギーの強さって? って考えたとき、1冊目、2冊目を撮ったときに自分の家族や身近な人からもそのエネルギーが出てたことを思い出して、「これって人間という生き物からずっと感じ続けてたパワーだよな」と再認識したんです。
そのパワーをいつもとは異なる角度から浴びたことで、脳が刺激されたんですよね。もちろん、彼女たちにはいろんなバックボーンや過去のストーリーがあるわけだけど、そういう私的なことをすべて度外視した「人として・生き物として・肉としてのエネルギー」をビシッとくらったんです。理性とか知性とか全部ふっとばしちゃってもなお減衰しない圧倒的なパワーを、問答無用に浴びせかけられたんです。
それで、これはちゃんと撮ってみたいとの想いが芽生え、2005年くらいからプライベートでタイの売春宿に通い、撮影を始めたんです。とはいえ、金魚鉢での撮影はそうそう簡単にはいかないわけですよ。だって、文字が読めない人にでも撮影禁止であることが分かるように、カメラのイラストの上に大きく"ばってん"を記したシールがそこかしこに貼ってあるんだから。
でも俺はそこにカメラを持ち込んでぱちぱち撮るわけ。しかも暗いからフラッシュたいちゃってね。もちろん、女の子はそれに気付くとパニック状態。しかも、何枚も何枚も撮り続けるから逃げ出しちゃうし。そうすると用心棒みたいな男たちが向こうからどしどし走ってきて「何やってんだお前?」って。
俺ももちろんそうなることは最初から分かってるから、バカな観光客のフリしてコンパクトカメラで撮ってるわけです。だから用心棒に取り押さえられても「えっ? だめなんですかぁ?」ってとぼけ続けて、「だめに決まってんだろ」と外に連れ出される、と。そんなことを何回も繰り返してました。
知性や理性が吹っ飛んだ後に残ったのはセックスだった
――繰り返すことで納得いく写真は撮れたのでしょうか?
撮り貯めた写真は東京都写真美術館で展示もしてもらったんですけど、消化し切れない思いは残ったまま。だって、相手に気付かれずにパシッと撮れるのって最初の1発目だけですからね。2発目からは騒ぎになってるわけだから、どうにもチャンスが少な過ぎ。思い通りの形で「肉のパワー」に飛び込めないんですよ。飛び込んでるつもりなんだけど、危険なだけでね(笑)
実際、最初のころは、タイでのCM撮影でお世話になったコーディネーターに協力依頼してたんだけど、最終的に「これ以上付き合ってらんないわ。あんたこんなこと繰り返してるとほんと殺されるから」って言われて、「ですよねー」みたいな(笑) それでも、納得いくものを撮りたいっていう想いが消えずに四苦八苦してたあるとき、具体的なイメージが浮かんできたんですよ。
――どんなイメージですか?
俺が仰向けになって寝てると、ガリガリに痩せた白人のおやじが俺の顔を覗き込んでくるや、「こっちにこい」っていう風に先導して歩き始めたんです。実際にはそのとき真っ昼間なんだけど、俺のイメージの中では暗闇です。
それで、おやじは松明みたいなものを持って一本道を歩いてるんだけど、道の両サイドには素っ裸の人間たちが連なって俺のことを見てるんです。裸の人間は無数にいて、どこまでいっても途切れることがないんです。
しかしそうこうするうち、道の先にある掘立小屋に辿り着き、中へと通されると、室内の3方の壁を埋め尽くす、2~3段ほどの物干し竿に人間の死体が何体もかかってるんです。床から天井まで壁が見えないほどぎっしりと、まるで洗濯物みたいにね。
そして目線を床に落とすと、"生きた肉たち"がくんずともつれ合っている真っ最中。
そのイメージがはっきり浮かんだとき、タイでの出会いやこれまで見聞きしたものがどんどんつながっていって、なんとしてもこれを形にしたいと強く思ったんです。実現のために入念に計画して、まずは人を集めなきゃ、って。
掘立小屋の中の人や、売春宿に閉じ込められた人が放つエネルギーって、例えば学校で集合写真撮るときに生徒たちが放つそれとは質が違うと思うんです。俺が撮りたいのはもちろん前者。知性とか理性とかのあらゆる人間らしさが吹っ飛んじゃってる"肉だんご"の中に飛び込みたい欲求に駆られたんです。
――実際に飛び込んでみていかがでしたか?
最っっっ高でしたね。ほんとに最高。
まず、「知性とか理性とか吹っ飛んだ」状態の人間はどうなるんだろう? の答えとしては、セックスしかなかったですね。(それを写した写真集『そこにすわろうとおもう』の該当写真一枚一枚は)ストロボたいてるからうっすら明るいけど、現場は辺り一帯闇なんです。俺がカメラを向けた先にだけ、ピントを合わせるためにスポットライトをうっすら当ててもらってるんですけど、それ以外は真っ暗。
その真っ暗な中で300人の男女が無秩序に絡むっていう。やっぱそこまで追い込まないと知性も理性も吹っ飛ばないでしょ? 自腹切ってるんだから、「どうやったら理性だとかが吹っ飛ぶか?」って真剣に考えるし、自分が思い描く"肉の塊へのダイブ"を最良の形で成功させようとしますよね。
なんせ預金が空っぽになるくらい継ぎ込んだんだし(笑)
でも、俺の預金だと300人が限度だったけど、できれば1万人がよかったし、できれば1億人がよかったし、できればスカンジナビア半島なんかの広大な土地の上空にヘリコプター飛ばして、上から"ズババババババババ!!!"って撮影したかったというのが本音。
アラブの富豪かなんかが大金積んで「JIN、ヤッテミナサーイ!」って言ってくれたら「イエース!」って即答して実践したんですけどね(笑)
女性と交わるとき、無数の手に歓迎されてるように感じる
――撮影前にはどんな準備をしたんですか?
ミクロマン(約1/18スケールの関節可動人形)を100体くらい買ってきて、「この人はバックで、この人は立ちで」って考えただけじゃなく、(背景となる)洞穴のサイズも測ってきて、そこにどういう立ち位置で何人配置して、何ミリのレンズ使って...ってとこまでかっちり決めました。
一組一組の体位はもちろん、ひき画になったときの全体の形を変えられるよう、数パターンの「SEXフォーメーション」を用意して、何種類もの画を撮れるとこまでセッティングして挑んだんです。
そうやって準備にもたっぷり時間をかけたことに対する想いもあるから、撮影本番を迎えた暁には、2つの小惑星が遥か彼方から一点に向かって飛んできて、ベストな角度で衝突して、ぶつかった瞬間に"スパーン!!"って砕け散るような快感を得ました(笑) そんな体験はもちろんセックスでもしたことなかったです。
撮影が始まるまでの間、税理士に「これだけの大金を数日の撮影で使うなんて絶対辞めたほうがいい。こんなことやろうとするなんて気は確かか」って何度も説得され続けたけど、やんないとノイローゼになるって思ってましたから。だって、腹の中でイメージがどんどんどんどん膨れ上がっていくんですよ。
例えば、「ラーメン食べたい」ってずっと思ってたとして、やっと入った店のラーメンがまずかったら、おいしい一杯を食べてリベンジするまで腹の虫がおさまらないですよね? あれと全く同じ。大変なんですよ、毎日膨らんでいく欲望を抱えたまんま生きていくってのは。だからもうやらざるを得なかったし、達成し終えた今となっては、思い返すたびに余韻に浸れるくらいの最高の思い出。桁外れの快楽を得ることができたし、この感覚は多分一生身体に残ると思います。
――そこまでして肉体の塊の中に飛び込みたいと思ったのはなぜですか?
人間って生まれてから死ぬまで、自分のエネルギーに翻弄されて生きていきますよね。エネルギーが感情を突き動かして、感情が揺れ動くからいろんなものを好きになったり嫌いになったりする、その繰り返しの中で生きてるのが人間だと思うんですけど、俺にとってはそのエネルギーや命そのものが謎なんですよ。
自分は才能がありますとか俺ってすごいんですとか、そんなこと言いながら一生懸命どこかにへばりついてるのなんて全然面白くないじゃないですか。完全な"張りぼて"ですよ。俺にとっては、そんなすっからかんな綿あめみたいなものより、無知性で無理性だけど、脈打って膨れ上がってる肉のほうがよっぽど信頼できるし、そこに飛び込むことによって「生きたぞ」っていう実感を得られると思ったんです。
人の理想や好みなんてものはころころ変わるし、日本人のファッションでいうならちょんまげだって今や過去のものだけど、肉体だけはホモサピエンスになってから変化してないでしょ? そういう"どうしようもなく変わることができないもの"に吸い寄せられちゃうんですよ。
――「変わることのできない肉体同士」をつなげるセックスは、大橋さんにとってどんなものですか?
女の人の中に入ると、無数の"命の手"みたいなものに「おう! 来いよ」「おいでおいで」って歓迎されてるように感じるんです。あれって喜びなんでしょうね、きっと。
だから、強姦だとかやっちゃいけないことをやった場合はまた違うんでしょうけど、お互いの気持ちが通じていると、ものすごく大きな喜びに包まれてる感じがするんです。不思議ですよね。やっぱりこれも謎なんです。なんなんだあの手は? って。でも、分かんないことが出てくると、いつかそれを形にしてみたくなるんです。
――では、生きる喜びの対極にある「死」は大橋さんにとってどんなものですか?
フランシス・ベーコンがあるインタビューの中で、「人間は、壁に止まった蝿がたちまちはたかれてしまうの同様、とてつもなく儚い存在だ」と語ってるんですけど、まさにその通りだと思うんです。俺自身いつ死んでもおかしくないと思ってるんで、泣いてばかりもいられないし笑ってばかりもいられないなって。
自分自身、「そこにすわろうと」おもって生まれてきた
――『そこにすわろうとおもう』には、公園の木々の中で首を吊った男性の写真も収められていますが、人は死んだ後もなおエネルギーを発しているものですか?
彼のエネルギーは強烈でした。俺はたまたま第一発見者になったわけなんですけど、今はもう動かなくなってしまっているその身体の中にとどめられているエネルギーが、まだ完全には無くなってない感じがしたんです。死後数時間経っているんだろうけど、生の勢いがまだ渦巻いてるっていう感じ。それに、死そのものが、強く生を感じさせる存在でもありますしね。
――「エネルギー」「肉」は大橋さんにとって特別なキーワードなんですね。
肉ってすごいと思うんですよ。例えばエレベーターに誰かと2人きりで乗ったら、それだけでもう何かを感じるでしょ? だって、肉同士がエネルギーを発してるんだから。今後、人と人とが肉同士で繋がることができるようになったらすごいことだと思うんですよ。
言葉を使ってのコミュニケーションによってウソや誤解なんかが生じていたものが、肉同士で繋がればどんな情報も正確で分かりやすくなるはず。しかも、USBケーブルを使ったみたいに"ドーン!! "と大量のデータが入ってくるし。
坂口安吾も『肉体自体が思考する』っていう小説の中で似たようなことに触れてますけど、実際のところ、そういうコミュニケーションができるものだと思うんですよ、肉っていうものは。
『そこにすわろうとおもう』で肉団子に飛び込んだときも、『いま』で羊水を浴びながら生まれたばかりの赤ん坊と対面したときも、言葉がないコミュニケーションの中で感じる気持ちよさや高揚感ってありましたから。もちろん、日々、自分が接するありとあらゆる人間から、同じようにパワーが出てるのを感じますしね。
――『そこにすわろうとおもう』というタイトルにも、その想いは落としこまれているのでしょうか?
「写真集を構成するすべての写真にしっくりくる言葉ってなんだろう?」って半年くらい考えました。セックス、肉、命...いろんなキーワードがあるけど、どれもぴったりはまる言葉ではなかったから。
それで、俺があの肉団子に吸い寄せられていった経緯を見つめ直して、「何が俺をあそこに連れていったんだろう?」って考えたんです。記憶を手繰りながら、最終的には、自分がこの世に生まれ落ちた瞬間や、卵子と精子が結合した瞬間にまで意識を向けて。そうやって考え続けるうち、人間がこの世に出現する瞬間のイメージが浮かんできたんです。
どこでもないどこか、いつでもないいつかという、時間と場所が特定されない空間に、誰でもない誰かがすっと椅子を差し出すようなイメージです。
椅子を差し出された人は、理由もなくただそこにすっと腰掛けるんです。人間が生まれてくるってそういうことなんじゃないかなって思うんですよ。『Surrendered myself to the Chair of Life』っていう英題は、「命の椅子に身を委ねる」っていう意味なんですけど、本当に、生きるってそういうことだなって感じるんです。
俺自身、「そこにすわろうとおもう」っていう感じで生まれてきたと思うし、同じようにして命が始まった人たちと、写真を通してつながってるっていうことなんですよね。
【大橋仁 Profile】
72年、神奈川県相模原市生まれ。'92年、第8回キャノン写真新世紀/荒木経惟選・優秀賞受賞。個人作品集に『目のまえのつづき』『いま』(以上、青幻舎) 世界最大の写真集の見本市「パリ・フォト」で選出される、写真集のための賞The Paris Photo -Aperture Foundation Photobook Awards 2013を受賞した(=2013年に全世界で出版された写真集の中からベスト10選出)『そこにすわろうとおもう』(赤々舎)がある。