スローリィ・スローステップの怠惰な冒険

四国城郭紀行〜大洲城の復元天守に登る

2014/09/30 00:26 投稿

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 今月のはじめ、四国の瀬戸内海側をぶらりと旅してきた。
 四国にはなぜか仕事でも縁がなく、訪れるのは小学5年生の時以来、30年ぶり。
 松山に行くことがあれば、ぜひ足を伸ばしてみたいと思っていた、大洲城の復元天守にも登城することができたので、ちょいとレポートしてみよう。なんでも今年復元10周年なんだとか。

 現在、日本に現存する天守閣はわずか12。それ以外の「天守」はほとんどが戦後に復元されたもの。観光用のモニュメントとして、ろくな考証もせずにいいかげんな天守をぶっ建ててしまったところも多く、むしろ史跡保存の弊害とさえなっている。恐竜の復元じゃあるまいし、あんなハコモノを見物するよりは、苔むした石垣を散策したり、崩れかかった土塁の跡を発見しつつ往事の姿を思い浮かべる旅のほうがどれだけ風情のあることか。


復興天守の代表・大阪城天守閣。1931年に再建されすでに80年以上経過。

 名古屋城や岡山城、広島城など戦災で焼失するまでは国宝に指定されていた天守ですら、外観だけ元の形に似せたコンクリート製の展望塔に変わり果て、なんとも味気ない思いをさせらるが、これは現在の建築基準法では木造建築物は三階建てまでしか認められない、という事情もあった。
 しかし近年、城郭の櫓や門を史料に基づき、木製の伝統工法で再建する動きが加速している。やはり観光客の観賞意欲を満たすには、往事の姿を可能な限り正確に再現しておきたいもの。さらに伝統工法で再建することは、建設業者や職人たちがかつての技術を学び、その伝統を継承する絶好の機会ともなりうるのだ。宮城県の白石城三重櫓や、静岡県は駿府城二の丸東御門、佐賀県の佐賀城本丸御殿などがその代表例と言えるだろう。大洲城は、その中でもついに四層の天守を再建することに成功した希有な例なのだ。

 とはいえ、ひさびさの松山。まずは「伊丹十三記念館」とか「坂の上の雲ミュージアム」といった、平成時代になってから建てられた観光地に足を運んでしまう。中でも、伊丹十三記念館は伊丹自筆のイラストやナレーション原稿、愛用の茶器・食器がたっぷり展示されるだけでなく、ガイドブックは読み応えのある充実した内容。さらに700円で『お葬式』の絵コンテ付きシナリオノートというのも売っていたのでこれも購入してしまった。

 そして道後温泉で一泊したのだが、かつて子規記念博物館のうしろに動物園が広がっていたはずの道後公園が、今では湯築城址として史跡に整備されていたのだね。かつて伊予を支配した河野氏の居城だった湯築城、外堀と内堀、そして土塁が残っており、復元された武家屋敷まで見学できてこりゃおトク。


道後公園(湯築城址)

 湯築城は南北朝時代の1335年頃に中央の丘陵部を切り開いてできた小型の山城だが、1535年頃に外堀を築いて平山城に改築されている。「土塁展示室」という土層の断面図を展示して内部構造や築造過程を紹介するコーナーもあり、土塁好きには応えられない内容だ。庭園区を奥まで行くと、内堀と外堀の間がもっとも狭くなる箇所が、「遮蔽土塁」によってふさがれており、これも面白い。搦手(西口)から侵入してきた敵をここで行き止まりにさせるってわけだ。


湯築城の内堀と内堀土塁


 さて、30年ぶりにつかった道後温泉は、小学生のころの記憶とほとんど変わっていなかった。夏目漱石『坊ちゃん』にちなんだ、「風呂で泳ぐべからず」の札もあいかわらず(コレ、女湯にもあるのかしら?)。

 翌朝はとりあえず松山城に登城する。

 小学生のころ、東雲口からロープウェイに乗って本丸に向かったので、改めてその手で行こうと思ったのだが、隣の一人乗りのリフトの方がスリルありそうに見えたので、そっちに変更。ただし、城郭マニアは二の丸庭園の方から、徒歩でゆっくり縄張と石垣を確認しながら本丸に登ってゆくのが定番コースである。


松山城本壇入口に加藤嘉明のゆるキャラ「よしあきくん」が佇む(中央が大天守)

 本丸に到着して天守閣へ。松山城の天守は姫路城と同じ「連立式」で、大天守と三つの櫓が互いに渡櫓で繋がっており、例え本丸に敵が侵入しても、天守のスペース(本壇)だけで立て篭れる構造になっている。じつはこの天守、1784年に落雷で焼失、年内には幕府から再建許可を得たのだが、着工できたのはおよそ50年後の1830年代、完成したのはさらに20年が経過した1854年。なんでこんなに時間がかかったかというと、ひとえに松山藩が財政難だったためという……。ともあれ江戸時代最後の本格的な城郭建築である。
 しかし、1854年に建てられた天守閣で現存しているのは3層3階地下1階層塔型の大天守のみ、三方の櫓と渡櫓は1933年(昭和8年)に放火で焼失してしまったのだ。私はこれ、今回再訪するまで戦災による焼失だと思っていた。金閣寺に火をつけた犯人は小説や映画になっているが、松山城に火をつけた者はどんな人物だったのか、誰か作品化していないのだろうか。
 それゆえ、松山城本壇の三櫓と渡櫓は昭和40年代はじめに再建されたものなのだが、これは木造建築による完全復元である。じつは松山城の放火事件は国宝指定の直前に起こったもので、研究者による建物全体の記録が細かく保存されていた。おかげで木造による歴史的建造物復元の先駆けとなった松山城だが、再建された部分も40年以上が経過し、何度かお色直しされている大天守と年代の差がほとんど見分けられない。ちなみに天守の内部では、本壇の復元工事の記録映画をモニターで流していた。30分もあるので全部見るのは大変だが……。


松山城大天守(3層目に外廻縁と高欄が見えるが、あれは飾りで外には出られぬ層塔型)

 さて、予讃線に乗って、伊予大洲へ。
 この街、NHKの連ドラ『おはなはん』の舞台なんだとか。もちろん私も初めて知った(古いことに詳しいと思われがちな私でもさすがに観てない)。駅からぽくぽく2キロほど歩いてゆくと、見えてきました大洲城天守の勇姿。


大洲城遠景

 大洲城は1331年築城という歴史ある城だが、豊臣秀吉の四国平定後、領主は小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰と代わり、いつごろ現在の縄張りに改築され、天守が置かれたのはよくわかっていない。城作りの名手・藤堂高虎が宇和島城に在城した時期に着工され、脇坂安治の時代におおよそ完成したのではないかと見られているようだ。つまり1596年から1617年ごろ。慶長年間に建てられた建築物であり、織豊時代(しょくほうじだい、と読む。安土桃山時代のことを最近はこう言うのだ)の城郭建築を今に伝える貴重な建物だった。現存していれば。
 大洲城天守閣は明治期まで現存していたのだが、さすがに老朽化著しく、1888年(明治21年)に取壊されてしまったのだ。しかし明治に三方から天守を撮影した古写真と、江戸時代に修復工事を行った際に作成された木製の天守雛形が保存されており、内部の柱や梁、外観の石垣の形や垂木の数まで正確に確認できたため完全な復元が可能となった。


大洲城天守閣と高欄櫓

 ネックとなった建築基準法の壁だが、地元の復元委員会と建設省が協議を重ねた末、「法律は復元建築のような史料に基づく建造物を想定していないため、緩和規定が用意される」との見解が示された。そこから先も関係機関との連絡調整にずいぶんいろいろあったそうだが、「めんどくせーからコンクリート製でよくね?」と安易な解決法に流されなかったのは偉かった。2004年にようやく復元完成したのがこの天守だ。まだできてほんの10年だから、風雪を刻んだ重みはなく、ぴっかぴかの印象である。


大洲城天守と台所櫓を本丸側から見上げる


 ぱっと見、破風が多いっスね。
 4層4階層塔型、下見板張りの黒い壁が目立つが、1階2階の屋根は全方面に千鳥破風が、3階屋根には同じく四方に唐破風が配置されるという、凝った装飾。破風が多いと当然ながら屋根を葺くのが大変になるし、壁の作りも手間がかかる。あえて装飾性の高い天守を築こうとするあたりは、築城技術が絶頂期に達しようとしていた慶長年間の派手好みというやつか。江戸時代の大洲藩の石高は6万石だったから、ちと分不相応な城かもしれない。

 いよいよ中へ。天守の左右につながる二つの櫓、台所櫓と高欄櫓はそれぞれ国の重要文化財に指定されている歴史的建造物だ。再建されたのが1860年頃と新しかったため、破却をまぬがれている。


大洲城天守の1階と2階の吹き抜け(中央の柱が心柱)

 台所櫓から中へ入り、天守へ。中心には心柱が通り、一階と二階が吹き抜け構造となっているのが珍しい。天守というのは象徴的な存在で居住空間ではなかったから、倉庫として利用する時、荷物を引き揚げやすいようにしたかったのだろうか? しかしこの謎の吹き抜け構造が老朽化に耐え切れぬと判断され、明治期の解体処分につながったそうだから皮肉である。


内部の階段

 階段も急そのもので、バリアフリーの概念は完全無視。使用された木材もすべて国産とのことだ。
 最上階からは、なだらかな肱川の流れと城下町の風景が目に快い。「肱川」という名は、この城を建てる時に人柱となった「おひじ」という女性の名に由来する、という話があるそうだが本当だろうか。


大洲城天守最上階からの眺望

 中で、大洲城建築の様子を、大阪の人形作家・南條亮がジオラマで再現したものがなかなか楽しいものだったので紹介しよう。


築城の資材調達を再現したジオラマ


石材の切り出し


伐採した木を川に送るが、足をすべらせて落ちる奴も


石材をひっぱる人夫 その奥には作事奉行と奥方(?)


こちらは天守閣工事の様子を再現したジオラマ


漆喰を塗る左官職人や瓦を葺く瓦職人たち


引かれる石材の上で音頭をとる男の笑顔がなんかムカつく


賄い場で食事を作る婦人たちも

 どことなく野暮ったさの残る人形の表情がバラエティ豊かだな、と思えばモデルはみな一般公募で選ばれた人々らしい。さすがは再建費用の多くを募金でまかない、用材も寄付で集め、再建工事中は木曵き式をはじめ節目ごとにイベントを行い、ライブカメラで工事のネット中継までしていた大洲城である。地元民と全国の城郭ファンが手を取り合って復元を盛り上げている様子が伝わってくるではありませんか。

 さて、長くなったので先を急ごう。大洲城登城の翌日には、香川県に移動して、未訪問の城をふたつ登城してきた。まずは天守閣が重要文化財となっている、丸亀城である。


丸亀城を大手門から見上げる

 標高66mの亀山を切り開いて築城した丸亀城。「石の城」の異名を取るだけあって、日本有数の高石垣がすばらしい。
 まず1670年に完成した大手枡形。橋を渡ったところにある手前の高麗門が二の門で、その奥の右に曲がったところにある櫓門が一の門。門の石垣は江戸城や徳川大阪城でおなじみ「切込ハギ」によるブロック塀のような石垣だ。

 そして二の丸に上がり、天守閣を見上げる。3層3階層塔型、全国の現存天守では最小だが、1660年完成という歴史を持つ。二の丸側から見ると、1層に石落とし、2層に唐破風が見えてなかなかの面構え。


丸亀城天守閣

 反対方向の本丸側から見ると、3層に千鳥破風が見え、小さいなりに意匠を凝らした天守であることがわかる。


丸亀城天守閣を本丸側から見る

 天守に入って見たが、最上階の柱がなんと落書きで傷だらけなのは衝撃的。まぁ、欧米の歴史遺産も観光客の落書きで満載という話は聞くが、しかしわざわざカッターで彫り込んでいくかね? そのうち入場禁止になるんじゃないか。


丸亀城天守最上階の柱は落書きだらけ

 落書と言えば、松山城で展示されていた、江戸末期の大工が柱の一部に残したらしい落書きは可愛かったがね……。


松山城天守閣の内部で発見された侍の似顔絵

 さて、丸亀城は二の丸と本丸を観ただけで、そのまま引き返してはもったいない。搦手口に回って堅固な石垣の群を見ておかなければ。「打ち込みハギ」の石垣が巧みに配置され、隅の部分は算木積みによる優美な曲線美が楽しめる。なぜ裏側がこれだけ堅固に作られているのかと言えば、もともと築城された時期は大手門がこっち側にあったからである。


搦手口の石垣

 そうかと思えば、東南の外縁部には自然石を積み上げる原始的な「野面積み」の石垣が80mほど続いている。別段この部分の石垣がほかの箇所にくらべて古いというわけではない。現在の大手門の石垣が美しい「切込みハギ」だったことを思えば、やはりお城も人も、人目につく部分はしっかり着飾り、人目につかない部分はそれなりに……ということだろう。

外縁部に残る「野面積み」の石垣


 丸亀城の見物を終え、返す刃で高松城へと進軍。
 瀬戸内海に面した平城で、海にせり出して作られた「水城」の高松城。直接海から資材を受け入れられるため篭城戦に有利な上、二の丸から本丸をつなぐ橋を落としてしまえば、本丸は完全に浮き城として独立、ここだけで篭城することも可能という周到な縄張りは、黒田官兵衛の物とも伝えられる(諸説あり)。


高松城月見櫓

 さて、高松城も数年前に本丸の再整備が行われ、天守台石垣を解体して完全に修復した。じつは高松城にも1884年(明治17年)まで3層4階地下1階層塔型の天守閣が現存していたのだが、老朽化のため取壊されているのだ。 


高松城本丸の天守台石垣


復元された礎石

 現在、天守台の修復をきっかけに天守閣も復元しようという動きがあるらしく、こんなイメージ写真まで展示されていた。古写真も史料も残されているようだし、3層の建築なら大洲城ほど許可取りの手間がかかることもなさそうだが、さてどうなりますやら。


天守閣復元イメージ

 しかし天守閣復元の流行はこうした「失われた天守」の城ばかりでなく、なんと小田原城や名古屋城においても、デンと建つコンクリート製の復元天守をぶち壊し、新たに木製で完全復元し直そうという動きがあるらしい。

「天守閣」復元にかける夢 名古屋城建て替えで論争http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0401J_W2A101C1CR0000/

 昭和のコンクリート製天守もすでに老朽化していることと、いつ地震が来るかわからない昨今、耐震強化の必要に迫られ、それならいっそ丸ごと建て替えを……という発想で、全国の有名城郭でいっせいに検討が始まっているようだ。まぁ、小田原城の天守閣(1706年に再建されたもの)も明治期まで現存していたし、名古屋城天守閣は昭和20年の空襲で焼けるまで国宝に指定されていた。特に名古屋城は、現在本丸御殿の完全再現というビッグプロジェクトに取りかかっている最中であり(2018年完成予定)、その勢いに乗って夢を語りたくなる気持もわからんでもない。しかし総工費342億……。そんなに金あるのか名古屋って。

 このように近年まで現存していた天守ならまだ検討の余地はあるかもしれないが、城郭ファンも困惑させられるのは江戸城天守閣再建計画というやつだ。1980年代のバブル期から何度となく叫ばれているプロジェクトなので、耳にしたことのある人も多いだろう。

<推進側のHP>
認定NPO法人 江戸城天守を再建する会〜なぜ今、江戸城再建なのか
http://npo-edojo.org/edo_castle/why_edo.php

 江戸城の天守閣は、家康、秀忠、家光によって短期間のうちに三度も作り直されており(理由は諸説あるがよくわかっていない)、家光の建てた巨大天守は1657年の明暦の大火で焼失、その後再建されなかった。もちろん焼失直後に最終形態である三代目天守をそのまま再建しようとする計画が検討されたことがあり、図面も作成され正確な史料が多数残されている。外観も内部構造もほぼ判明しているならば、これをベースとして東京に新たなモニュメントを築き上げてもよいのでは、という発想が浮かぶのは自然なことだ。
 ところが。皇居の本丸に現存する天守台石垣は、オリジナルの7間よりやや低めの5間半という寸法に高さが直されてしまっていることもあり、この天守台石垣と江戸期の再建計画図面はそもそも合わないのではないか、300年以上「象徴」として存在してきた石垣に、わけのわからん建物を乗っけるんじゃねぇ、という批判も噴出した。一方で、プロジェクト推進側もその種の批判に細かく反論しており、オリンピックなんぞに金をつぎ込むよりよほどいいじゃねぇか、と応援する人もかなりいる。

<批判側の記事>
城の再発見!江戸城の現存天守台が危ない!!
http://castles.noblog.net/blog/h/10987226.html

城の再発見!いよいよ論議すべき、「復元」ではなくて「仮想再建」だという実態
http://castles.noblog.net/blog/h/11554782.html

 私個人としては、写真資料が残されていない時代の建築物を「復元」と称して工事するのは危険ではないかと思っている。登呂遺跡や吉野ヶ里遺跡などを観に行けば、保存された史跡の上に、弥生時代の建物を「復元」した住居や倉庫がモニュメント的に建てられてはいるが、あれはあくまで観光客が幻想を抱く「補助」とするための存在であり、弥生時代の建築を完全再現することなど不可能だ。しかし、多くの観光客があの復元を「実際にあんな風だった」と誤解して観賞することは避けられない。恐竜の復元ロボットと同じで一種のサービスなのだとは思うが問題もはらんでいる。
 豊富な史料に裏打ちされた大洲城天守閣でさえ、史料と古写真で食い違う部分もあり、「写真優先」で復元されている。つまりあの天守は「幕末期」の姿のみを再現したものと言えるわけだ。
 天守焼失後の江戸城では、富士見櫓がその役割を代用しており、これは今も立派に現存している。また、17世紀に入ってから、天守台石垣だけは建築するが、そこに天守を建てなかった城が多数存在することにも注目したい。この時期、「象徴」としての天守の意味が変質したことを物語っている。
 すでに「皇居」として長く親しまれている場所に、「日本人の誇りとなる建造物」などというものが屹立し、時代錯誤な幻想を抱き直す必要はまったくないのではないだろうか。


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