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告白的錯乱論〜吉田喜重『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』

2020/05/01 23:59 投稿

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吉田喜重『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』(文藝春秋)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163910994


 早いもので、休業期間に入って4週間が経過した。4月8日に緊急事態宣言が出て以来、突如中断された仕事は一人で勝手に進めることもできないし、空いた時間ができれるたびにのぞいていた映画館や古書店はもちろん、なじみの飲食店や銭湯までほぼ閉店という状況ではどうにも身動きが取れない。
 まぁ、私はワーカホリックとはまったく逆、時間を無為に過ごすことに関しては達人級な男なので、降って沸いた「休暇期間」もぜいたくに蕩尽している。ここを鍛錬の時期ととらえ、ネット配信の動画コンテンツの最新状況をチェックするとか、語学の勉強をするとか、志高き理想に邁進すれば大物になれるのだろうが、現実はチマチマした家事をこなすのと、長年「積読」となっている本やDVD、録画コンテンツを消化するのでせいいっぱい。

 が、先日は珍しく新刊小説を読み終えた。映画監督・吉田喜重、初めての小説作品となる『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』がそれである。
『嵐が丘』(1988)の公開後、次の作品『鏡の女たち』(2002)まで14年も待たされたものだから、「次回作もまた14年待ちなのかねぇ」などと吉田ファンはみな不安を口にしたものだが、そのまさかをゆうに超え、18年も待たされて登場した「新作」は映画ではなく小説であった。それも主人公はナチス副総統ルドルフ・ヘス! 
 ルドルフ・ヘスといえば、アドルフ・ヒトラーの活動初期から個人的な信頼を得ていた秘書であり、『我が闘争』の口述筆記を担当した男でもある。ナチス副総統の地位まで上りつめながら、1941年に自ら戦闘機を操縦してイギリスに飛行、勝手な和平交渉を進めようとして逮捕されたという奇行の人としても知られ、当時は「精神錯乱」と伝えられた。
『エロス+虐殺』(1969)では大杉栄、『戒厳令』(1973)では北一輝という近代史の怪人を主人公に描いた吉田喜重が、ルドルフ・ヘスを主人公に据えたというのだから、どうしたって期待が高まる。いったいなぜ今、ヘスなのか?

ルドルフ・ヘス(1894〜1987)

 小説『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』は、4つのパートによって構成されている。いちばん最初の「何故わたしはルドルフ・ヘスに興味を持つようになったのか」は、著者の少年期の回想を私小説的に描く部分で、出征した従兄が残した古新聞の中から、1941年にナチス副総統のヘスがイギリスへの単独飛行を果たしたと報じる記事を見つける場面、そして空襲や敗戦の体験を経て、ニュルンベルク裁判を伝えるニュース映画で被告席に座るヘスと再会するまでを、繊細かつ映像的な文章で綴っている。
 次の「『わたし』という主語を欠落させたルドルフ・ヘス自身の手記」では、逮捕された晩年のヘスが、ベルリンの刑務所で行った回想を何者かが書き留めた手記、という体裁になっている。章題通り「主語」のない文章が語るのは、ヘス自身の視点による少年時代の回想から恩師カール・ハウスホーファーとの出会い、「H」という記号で表記されるカリスマ政治家への心酔、やがて始まる第二次世界大戦、その敗北を予期してイギリスへの単独飛行、と至る過程。囚人の手記らしからぬ正確さと、老人の回顧録らしい淡々とした描写で描かれる。
 続いて「アルブレヒト・ハウスホーファーによる宛名のない奇妙な、それでいて真摯な手記、あるいは遺書」という、カール・ハウスホーファーの息子アルブレヒトが、1945年にゲシュタポの捜索から潜伏中に書いた手記という「新発見資料」が続き、ここではアルブレヒトの視点から、ナチスにおけるヘスの行動が見返されてゆく。この二つの手記については、ひんぱんに「筆者による注」が挿入され、偽書の可能性に関する検討や、さまざまな情報の捕捉をしてくれるのだ。
 そして最終部には「ルドルフ・ヘスによる最後の告白、あるいは遺言」という明白な「フィクション」が配置されるのだが……。


カール・ハウスホーファー(1869〜1946)とルドルフ・ヘス

 ナチス・ドイツをテーマに、フィクションなのかノンフィクションなのか曖昧な手法でまとめた小説としては、2010年にローラン・ビネの『HHhH プラハ、1942年』という傑作があった。1942年にチェコで起きた、ラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件を題材に、「歴史的事実」とそれを調査する作者自身の視点が入り乱れながら展開、「歴史小説」を書くとはどういうことかについて、徹底的に意識的であろうとした一種のメタフィクションでもあった。
 しかし『HHhH』はその構造が、歴史的事実の魅力をいっそう増幅させ、読者にスリリングな読書体験を提供していた、という点ではきわめてマトモな小説だったと言える。ところが『贖罪』は最後まで読んでも、ルドルフ・ヘスの印象が刷新されたり奇天烈な仮説が展開することもなく、作者がこれを「書く」意図は明瞭にならない。ヘスによる自己弁明のような、あるいは「分断」が進む21世紀への批評のような手記(という設定の原稿)をながながと読まされた挙句、読者はきわめて居心地の悪い読後感に包まれる。作中、アルブレヒトがヒトラーを映画『カリガリ博士』(1919)に例える場面がある。催眠術師カリガリ博士をナチス出現の予見とする解釈は、ジークフリート・クラカウワーの『カリガリからヒトラーへ』以降、かなり有名になったもので、著者もこれを引用して解説するのだが、この吉田喜重もまた、少年時代に薄暗い納戸の中で、新聞記事に書かれた「ルドルフ・ヘス」という名を目にした瞬間から、なにか催眠術にかけられてしまったのかもしれない。そして眠り男チェザーレのように、70年余りの時を超えて妄執を維持させた結果、87歳になろうとする著者の「わたし」という人称が、93歳になったルドルフ・ヘスそのものへとスライドしてゆく「夢遊病者の夢」を、過剰に理知的な形で描いてゆく構造そのものに、往年の吉田演出の影を感じるのだ。

 吉田喜重が書く文章の特徴について、「言葉とともにある主体が、『著者』という身分の占めるべき空間上の一点をにわかに信じていそうにないことだけは、誰にも敏感に察知できるに違いあるまい」と指摘し、その映画作品においても「作品のすみずみまで支配権を行使するのが『作者』の特権であるなら、できればその特権的な『作者』の位置から思い切り遠くありたいというのが、吉田喜重の基本的な姿勢」と喝破したのは蓮實重彦だが、『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』での吉田は、冷静な夢遊病者として抱えてきた妄執を、あるいはヘスの「精神錯乱」の根底にある深淵を、著者の特権的な立ち位置からできるだけ距離を取りながら、覗いてみたくなったのだろうか。
『HHhH』を原作とする映画『ナチス第三の男』(2017)は、ユニークな語りの構造を取っ払った凡庸な歴史劇になってしまっていたが、吉田喜重が自ら『贖罪』を映画化したなら、どんな演出でこの構造を活かしながらナチスの内部で苦悩する男を映像化するのだろう。読了後はそんな想像の愉しみも待っている。

 緊急事態宣言下で「巣ごもり」を要請される今、47歳から93歳までを囚人として過ごしたルドルフ・ヘスの後半生は、著者の意図とは別に奇妙な実感を伴いながら迫ってくる。今、われわれがいる世界もまた、カリガリ博士の精神病院の中なのかもしれない。そんな疑いを抱きながら、今一度攻めの姿勢で読み返してみたい。



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