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『君の名は。』を想う 三葉の真実

2016/12/11 07:00 投稿

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 「君の名は。」のキーワードは「美しくもがく」であると考えています。
 「美しくもがく」を「もがく姿は美しい」と言い換えてもいいかもしれません。
 「困難に立ち向かい、もがき苦しむ。その事が美しく貴い
 作者はこの事を伝えたいのだと感じています。
 当ブログでは、この「美しくもがく」をキーワードに「君の名は。」について書いていきたいと思います。

三葉の真実。三葉の原点
 人物描写の密度を考えると、「君の名は。」の第一の主役は三葉です。
 公式サイトでは、その三葉を
 「家系の神社の風習や、父の選挙運動などに嫌気が差している。
 小さく狭い町を嘆き、東京の華やかな生活に憧れを抱いている。」
と紹介しています。
 しかし、この記述通りだと劇中の三葉の行動、引いては瀧の行動を上手く説明できません。  
 ですから、公式サイトの紹介に書かれていない本当の三葉の姿が別にあると考えています。

来世は東京のイケメン男子にしてくださーい
 三葉の本当の姿が垣間見えるシーンがあります。
 それは、口噛酒の神事で級友の陰口に傷つき、夜の糸守湖に向かって三葉が叫ぶシーン。
 「もうこんな町いやや。来世は東京のイケメン男子にしてくださーい
 もし、三葉が心底から糸守の町が嫌いら「いますぐ出てってやる」とか叫びそう。
 ですが、三葉は「来世は」と条件をつけている。なぜか?
 「来世は」を裏返せば、
 「現世では、糸守で人生を全うする事を既に決めている」事を意味します。
 口では狭くてしがらみの多い町を嘆いていても、本当の三葉は糸守を心から愛している
 これが三葉の真実です。三葉の原点は糸守です。

 とはいえ、三葉も十七歳の多感な少女です。
 三葉が糸守で生きる事は、宮水の神職を継ぐ宿命を背負う事と同じ。
 三葉はその覚悟も出来ている。それなのに…。
 神聖な神事の悪口を言われ、袂を分かった父と自分を同一視する中傷を受ける。
 こんなことがあれば、心を痛め落ち込むこともある。決心も揺らぐというものです。

三葉の孤独
 そんな中、瀧と三葉の入れ替わりの日々が始まります。
 瀧入り三葉の起こす騒動に、三葉は「私そんなキャラじゃないから」と怒っています。
 それでは、素の三葉キャラはどんななんでしょう。
 四葉やサヤちん、テッシーとの接し方を見ると、三葉は性格が暗いわけでも人嫌いなわけでもありません。
 一方で、素の三葉の学校生活はあまり描写されていません。
 この点は「そんなキャラじゃない」瀧入り三葉の様子を逆転させて想像する他ありません。

 そこから見えてくるのは、三葉の孤独な姿です。
 神職を継ぐ覚悟の三葉。そのときになって、昔こんな事が有ったと後ろ指さされぬよう、
三葉は慎み深く清く正しい生活態度を心がけていたように考えられます。
 ・いつも、きちんとした身なりでいる
 ・軽率な行動はしない
 ・目立った行動はしない
 周囲の人間に対し隙がなく壁が高い、美人だが近寄りにくいキャラだったと想像できます。
 
 心を開ける友達は、サヤちんとテッシーくらいでしょうか。
 この三人に関しても、愚痴モードではサヤちんと一緒に糸守の欠点を並べ立てていますが、心情的には糸守で家業を継ぐつもりのテッシーに近い。その一方で、「サヤちんにはテッシーがお似合い」と思っている三葉はテッシーと必要以上に親しくはしない。
 この三人の中でも、やはり三葉は一番孤独な存在ということになります。

三葉の理解者としての瀧
 瀧入り三葉は頻繁に素の自分を出して、三葉のキャラを崩すことになります。
 崩した結果どうなったのか?
 三葉の「壁の高いキャラ」が「親しみやすいキャラ」へと変わっていったのではないか?
 後輩女子から告白されたのは瀧入り三葉ですが、素の三葉に対しても周りの接し方が変わっていったであろうことは想像できます。
 今まで接触のなかった同級生や後輩から、親しげに挨拶されたり話しかけられたりしたら。
 三葉はそれを煩わしく思ったのでしょうか?
 それとも…。

 東京での三葉入り瀧はバイトが多いのを除けば、かなり自由に行動しています。
 一方で、三葉に入った瀧はどうでしょう。
 映画では組紐作りや口噛酒奉納しか描かれていませんが、宮水神社での神事にまつわる行事がたんまり待ち受けていそうです。
 そうして糸守の自然や宮水の神事に接しているうちに、瀧に糸守を故郷としてとらえる郷愁が醸成されていったのではないでしょうか?
 また、何度も入れ替わりを繰り返せば、瀧にも普段の三葉の言動がわかるようになる。
 そこから、三葉の置かれた立場や葛藤も、三葉の本心も理解できたと想像できます。

 映画には、瀧が三葉の原点を理解している事を思わせるシーンがあります。
 それは、瀧入り三葉がスカート&ジャージの格好で木を切り、コーヒー自販機のあるバス亭にオープンカフェらしき物を作ったシーン。
 これ、一体なんのために作ったんでしょう? というか誰のため?
 もちろん、三葉のためです。
 三葉の原点を理解した上で
 「三葉、ほんとうは糸守が好きなんだろ。東京のカフェが憧れ?糸守にカフェがないなら俺が作ってやる。だから、糸守を出てくなんて悲しいこと言うなよ」
 そんなメッセージを送ってるのではないでしょうか。
 
 三葉にとって、これら瀧の行動はどう影響したのでしょう。
 三葉の孤独を癒す方向に働いたのではないでしょうか?
 自分を理解し、手を差し伸べてくれる人が居ることは、心の安らぎになったのではないでしょうか?
 こうして、糸守での奇妙な共同(?)生活の中で、二人の間に信頼と好意が醸成されていったと想像するのは難しい事ではありません。 


美しくもがく瀧

 糸守探訪の二日目、瀧は三葉の口噛酒を飲むことで星の降る日の三葉と入れ替わります。
 瀧は三葉を助けるために、糸守にやってきました。
 瀧がもし、三葉の生命を救うことだけを考えたなら、簡単で確実な方法があります。
 瀧は三葉の体の中にいるのですから、落下地点から離れた糸守高校に留まり、星の降る時間をやり過ごせば良い。四葉や一葉、サヤちん、テッシーくらいなら説得することで一緒に助ける事もできるかもしれない。
 でも、瀧はそうはしなかった。
 それは、瀧が三葉の原点を理解していたからに他なりません。
 もし三葉だけ助かったとしたら、三葉は独り生き残った罪悪感に一生苦しむ事になる。
 「何も知らず、糸守とともに眠ったほうが幸せだった」とすら思うかもしれない。
 瀧は、三葉にそんな過酷な苦しみを与える選択はできなかった。
 三葉を真の意味で救うには、糸守の町を救う必要があった。
 だから、敢えて町民全員を助ける困難な道を選んだのです。

美しくもがく三葉
 御神体山での、同い年の瀧との触れあいのあと、三葉は糸守を救うために走り続けます。
 この時の三葉の行動も、瀧と同じ行動原理です。
 自分だけが助かるなら、御神体山に留まっていればよい。
 でも、三葉はそうはしない。
 それは、決して瀧に頼まれたからでも、責任感からでもない。
 自分の原点が糸守だと、はっきりわかったからです。
 自分の愛する故郷、糸守を救うために三葉は走り続けます。
 
 瀧の名前を忘れ、名前を知る手がかりも失せ、それでも立ち上がって再び走り始める三葉。
 夜の糸守湖に向かって叶わぬ夢を叫んでいた三葉とは見違えるようなその姿。
 これが映画のクライマックスでもおかしく位の感動的なシーンです。


終点は始発点

 瀧にとっては5年、三葉にとっては8年のときを経て、
 二人は幸せの涙の中で邂逅します。
 ああ、良かった。ハッピーエンドで。パチパチパチ。
 が…。
 ちょっとぉぉぉおお。なんでここで終わっちゃうのー!?
 と三葉の心の声が聞こえて来そう。
 たしかにそうですね。
 「君の名は。」の主役が三葉で、三葉の原点が糸守であるならば、三葉のハッピーエンドはまだ先にある。それは糸守の復興と宮水神社の再建です。
 三葉と瀧の再会は終点ではなく始発点だったのです。
 映画でも、二人の再会の後に「君の名は。」のタイトルを出す事で、ここがスタート地点であることが暗示しています。

 残念ながら、映画ではその後の二人、その後の糸守は描かれていません。
 ですが、その後を予感させる材料はあります。
 宮水神社の一帯は湖となりましたが、対岸の糸守高校周辺は残っている。
 住民は避難して全員無事です。
 テッシーは勅使河原建設の次期社長で、瀧くんも建設関係の会社に勤めている様子。
 この二人は、きっと糸守復興の力になってくれるでしょう。
 宮水のご神体は健在ですので、宮水神社も場所を替えて再建されそうです。
 どうやら、その後の物語もハッピーエンドを迎える予感がします

美しくもがく
 冒頭で「君の名は。」のキーワードは「美しくもがく」であると書きました。
 三葉たちが対峙している困難は運命・宿命(=定められた未来)です。

 糸守の住民は「星の落ちる運命」から二人の力で救われました。
 その代償として、三葉と瀧に立ちはだかった
 「別離と忘却の運命」も、二人は乗り越えました。
 ですが、ここに一つだけ残されたものがある。
 それは、三葉が宮水の神職を継ぐ宿命です。
 三葉がこの宿命に対して、どんな結論を出したのかは、映画では描かれていません。
 宮水神社再建を予感させる材料があるだけです。

 私は三葉が糸守で宮水の神職を継ぐと想像しています。
 ですが、それは三葉が運命に負けたという事ではありません。
 運命に対してもがいた結果は、運命の拒絶だけが唯一の答えではない。
 運命に対峙し、もがき苦しみ、考え悩んだ結果、運命を自分の事として受けいれる。
 これも、答えなのだと思います。
 これは、結果は同じに見えて意味する所は違います。
 人は運命に流されて何者かになるのではない、自らの意志で何者かになるのです。
 そういう意味で、三葉は運命に先んじたのだと、運命を超えたのだと信じたい。

 翻って、映画を見ている私たちはどうでしょうか?
 自分が何者か知っていますか?
 自分が何者になるか考えていますか?

 「君の名は。」のタイトルは、「あなたは何者なのですか?」
 という事を、私たちに問うているのかもしれません。


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