『なんのために、その手はあるんだ』

観劇を踏まえて戯言めいてみる。(10/18・たすいち)

2015/10/18 23:55 投稿

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  • 観劇

 やっほほーい! 日谷さんです。
本日は『ゴースト』第三話からの妄想ではなく、観劇感想です。

作品は「たすいち」様による『ノンタイトル』

観劇直後は感想が言葉にならなくて、アンケートに記入できなかったんですよね……。
それはあまりにも失礼なので、ブロマガに認めてお茶を濁そうかと。

もちろん、『ノンタイトル』のネタバレを含みますので、ご注意ください。









さて。

実は「たすいち」様の劇を観るのは初めてだったりします。
初観劇の感想としては、「内外の設定が上手いな」ってのと「固定ファンが多いのかな」といったところ。

世の中には他人が笑うことでつられて笑う方と、客観視してしまい冷めてしまう方がいるかと思うのですが、今回は後者が多かったかなという気がして残念。
シリアスシーンで笑うのって、どうにも好きになれなかったりするのよね。
シリアスシーンにコメディを挟めるセンスは素晴らしいなと感心もするのですが。

日谷さんは空気を読めないと、よく言われていました。







内外の目的設定について。

今回の物語、行きて帰りし物語よりは欠落回復の物語に近いように感じました。
が、それよりもさらに、ハリウッド的なアイデンティティ確立の物語構造に近いのではないかと考えます。

"虚構の日常"と"虚構の虚構(フィクション)"をつくりあげた上で交錯させ、それを(演劇という性質上、実は虚構ではあるものの)"日常"から捉えることで「虚構とは何か」を探る。
長井さんは何故それを探ろうとしていたのか。それは欠落したからではなく、「虚構とは何か」を探ることで虚構に惹かれる自身を探ろうとしているのではないか、という妄想です。



ハリウッド的アイデンティティ確立の物語は

「バックストーリー」
「内的な欲求」
「キッカケとなる事件」
「外的な目的」
「準備」
「対立」
「確立」
「オブセッション」
「闘争」
「解決」

――から成り立つと、自分は学びました。

このように捉えることで、長井さんの「内的な欲求」は「虚構とは何かを探る」、「外的な目的」は「脚本の完成」に相当。
そして卯月の「内的な欲求」は「居場所を見つける」であり、「外的な目的」として「誰かを救う」があったのではないかという妄想ですね。

他の要素まで検証するつもりはありませんが、長井さんと卯月のどちらにもない要素ってのは無いんじゃないかなあと思います。どちらかの物語にはきっと存在しています。

何にせよ、二人の主人公の内外設定がキッチリしているので、交錯する物語においても軸がブレなかったんじゃないのかなあ、なんて。
軸が安定していると、観客も安心して物語を追い続けられますよね。多分きっとおそらく。







感想としてはこんなところかなあ。
場転の演出が好みだったとか、長井さんが英霊エミヤっぽいとか、日常は登場人物(キャラ立ちしていないキャラクター)であったほうがメリハリ効いて好みだとか、ちっちゃい感想なら無くはないんですが。

ぶっちゃけ、ごちゃごちゃ書いた上で言い出すのもどうかとは思うんですが、この作品は「あ~、面白かった」で完結して良い作品な気もします
エンタメですし。ごちゃごちゃ考察するのもナンセンスというか。





だからと言って、役者の演技に一切触れない感想ってのも、それはそれでどうなのよって我ながら感じますけどね。
演劇におけるキャラクターと登場人物の差異って、真面目に考察するとすげぇ愉しそうなんだけどなあ。
既に手遅れか。院行きてぇなあ。
 

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