神仏信じないの流派流儀ということで、この稿は綴っていきたいとおもう。
まずは、神仏信じてるやつらの体たらく。なんといっても、まず先にここがあげられる。
そして、神仏信じてるやつらは、えらそーにいうほどに、なってない。ということがあげられる。
神仏信じないの流派流儀からいうと、
世の中は、自分次第であるということ。
艱難辛苦、喜怒哀楽さへ自分が味わうからこそ、だということ。
それを、釈迦や、イエスがえらいのなんのって言うのっていうのは、どうかとおもうぜ!
たしかに、釈迦や、イエスのいまに伝えられていることをそのまま聴くなら、目を見張るものはあるだろう。けど、けどである。
釈迦やイエスが、たしかに立派だとしても、だ。
仏教徒、キリスト教徒が立派なのでは、決してない!!である。
だろ??
聖人、偉人、賢人いろいろいるが、要は、自分がその高みに行けるかどうかだろーが。
どの高みにいっても、自分というものは無くならないし、また新たな艱難辛苦も喜怒哀楽もあるだろう。
要は、ここが神仏信じない流の奥義だが、
全部、自分だろー
ということだ。
この世は、自分しかないわけで、自分の無い世界なぞないわけで、どこ切っても自分というペコちゃん飴なんだってことだ。
だから、こそ、自分を大切に大事に、きめ細やかに。生きていくこと。
神仏信じない流は、そう断言する。
そして、どんな叡智だろうと、自分のものじゃないものは断じて、違う!!と言い切ってしまうのも、神仏信じないの流儀なのである。・・・・・・。
他人のフンドシで相撲をとってる人、多くいるだろうが、
神仏信じない流は、自分のフンドシ締めて相撲する人なのだから。以上。
まずは、神仏信じてるやつらの体たらく。なんといっても、まず先にここがあげられる。
そして、神仏信じてるやつらは、えらそーにいうほどに、なってない。ということがあげられる。
神仏信じないの流派流儀からいうと、
世の中は、自分次第であるということ。
艱難辛苦、喜怒哀楽さへ自分が味わうからこそ、だということ。
それを、釈迦や、イエスがえらいのなんのって言うのっていうのは、どうかとおもうぜ!
たしかに、釈迦や、イエスのいまに伝えられていることをそのまま聴くなら、目を見張るものはあるだろう。けど、けどである。
釈迦やイエスが、たしかに立派だとしても、だ。
仏教徒、キリスト教徒が立派なのでは、決してない!!である。
だろ??
聖人、偉人、賢人いろいろいるが、要は、自分がその高みに行けるかどうかだろーが。
どの高みにいっても、自分というものは無くならないし、また新たな艱難辛苦も喜怒哀楽もあるだろう。
要は、ここが神仏信じない流の奥義だが、
全部、自分だろー
ということだ。
この世は、自分しかないわけで、自分の無い世界なぞないわけで、どこ切っても自分というペコちゃん飴なんだってことだ。
だから、こそ、自分を大切に大事に、きめ細やかに。生きていくこと。
神仏信じない流は、そう断言する。
そして、どんな叡智だろうと、自分のものじゃないものは断じて、違う!!と言い切ってしまうのも、神仏信じないの流儀なのである。・・・・・・。
他人のフンドシで相撲をとってる人、多くいるだろうが、
神仏信じない流は、自分のフンドシ締めて相撲する人なのだから。以上。
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