湿原工房あるいは失言工房

思想「失同一性」

2016/04/10 11:04 投稿

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 いましがた購入してきたその書籍が、自室の書棚の一画をすでに占めているのを発見したとき、思わず「アッ」と声を漏らした。買うか買うまいか、遅読の私はしこたま逡巡して、とうとうその一冊を今日手にしたのだった。しかし、この逡巡は二度繰り返されていたというわけだ。いや、二度といわず、このところこのタイトルがことあるごとに脳裏を擦過し、私を誘惑し、その度私を逡巡させていたのだったが、実態、所有物となってしまうと存外読まないもので、いつのまにか一度目の購入を失念していた、これはそういうことだ。
 消沈したことに変わりはないし、依然消沈の渦中にある。しかし、どうだろう……私は同時に、ある趣を感じてもいるらしかった。ここに二つの、同一の、書物が別の物としてあるということ――もちろんそんな状態は処が書店ならざらにあるし、むしろそれが常態ではあるが、常態であるがために見過ごされた趣が自室においてはじめて生起してきているのだ。書物が二つ、別の仕方である、その書物は同一のものである。このかすかな面白味を逃すまいと繰り返しこう唱えながら、その情感へと焦点を合わせていった。
 二冊あることを逆手にとることは可能だろうか。つまり二冊性によって可能な書籍の利用法。まず浮かぶのは一方を手もと用とし、他方を布教用として他者に貸し出すという方法だ。二冊あることによって、こちらが読み終わらないうちにも気兼ねなく貸すことができるし、最悪借りパクされても喪失感は希薄であるはずだ。しかし、これはあまり面白くない。次に思いついたのは自宅用/出先用として使用する方法である。自宅に一冊あることにより、外出時持参する鞄にお守りのように入れておく。これは好い。これにより不便を伴うのは、しおりの位置を手動で同期する手間ぐらいのものだ。あるいは同期の度に遅滞側を再ロードすることにしてもいいかも知れない。時間は二倍近くかかることになるが、その分内容の読みこみを助ける機構ともなり得るだろう。
 そんなことを考えながら、いましがた購入したそれをまだ手にしたまま、「ああ」とまた声をもらした。趣の出所がどうやらこの"しおり"と符合するようだという気がするのだった。当然しおりも二枚用意することになる。二冊の本と、二枚のしおり。このふたつの二つは同期されている。別々の実体としての本、そしてしおりはしかし、相互に進捗を補完し、同一性を得ることになりもはや、本質的に一冊の本であり一枚のしおりでありはしないか。
 同一であること。私が読後のある日「こういう本を読んだ」と言う。相手が「それわたしも読んだ」と言うなら、それもまた同一性をもつということ。それでいて、物質的には二つ。例えば私が次に「でも、37ページのシミはいただけない」と言っても、通じないはずのものだ。

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 列車で、あるいは映画館には整列した椅子がある。それを見ながら、「連続する」ことを考えていた。場面はどちらでもよい、規格化された簡素な座席が縦横に並列する空間であればその他の場所でも差し障りない。通常なら、同一性は物質に、その根拠を求めて見出だされると説明できよう。厳密には、人などの生物は代謝し絶えずオーバーホールしつつ動いているのであって、物質の同一性に還元できはしないが、とりあえずここではそのことは置いておこう。とにかく自己の同一性を中心とした時間があるわけだが、これが時間を形成する無二の方法ではないことを言おうとしている。座席は規格化され隣合う座席と同一性を有している。そのそれぞれが切り取られた時間の一つ一つであるとき、たとえば各個座席を同じ構図で一枚ずつフィルムに記録し、これを映写するなら、このとき座席は経時的な前後関係をもち時間化する。こういう空間にいるとき、こういうフィルムを脳裏に映写している。そして思う、人の了解する時間もこのような人のバリエーションが並列された空間があり、なにかしらの"力"がある順列に導いているのではないか。これはバベルの図書館(ボルへス)だ。
 あらゆる可能な文字のバリエーションを一挙に所蔵するバベルの図書館。その蔵書のある書籍と別のある書籍には、一字だけ違うものがあり、さらに別のある書籍はまた一字を違える。これを繰り返していくと、全ての蔵書は一字違いの連続性のもとに順序だてることが可能となる。その一冊目と最終冊はまったく文字配列の重ならないものだろう。それがこの二冊の間に一字違いの法則によって並べることで、まったく別の二冊を連続性のもとに同一性を有し得る。
 そうした順列をバベルの図書館は考慮していない。アルファベットの並びで蔵書が整理されているのでもない。すべてのある本は他のすべての本に隣接し、隔絶している。ここは未時間化状態を保存している、といえるかもしれない。本はなんらかの法則によって順列組合せ可能であり、またなんらの法則にもよらない順列組合せも可能である。
 列車の、映画館の、整列した椅子が、規格化されたものであり一望できるという性質によって、バベルの図書館的イメージを可能にしている。やがて椅子は「列車の、映画館の」という限定を越えてあらゆる椅子へと展開していく。
 さっき書いたように、まったくどのページにも同字の使用がない二冊の書物が、その間隙をうめる図書によって連続性を得、連続性がそのまま同一性として見出されることを、ヒトに置換して考えると、他者と思われていたヒトが、じつは自己でありうるし、おそらく、自己であると言い切ることも可能になりはしないか。また別の見方をすれば(実態それは同じ観点かも知れないが)、それは以下のようなことが考えられるだろう。一冊の本が、時間を伴わない瞬間であると捉えるなら、複数冊がなんらかの関連によって連続することは、ヒトがある瞬間からある瞬間へと移行することの比喩である。ヒト(である必要はないが)の時間を最小単位にスライスしてみる。いや、時間がスライスされるのではなく、バリエーションの幾つかのサンプルが並んで、タブレット(?)を形成しているのだが、それをバリエーションに還元してみるのだ。すると各瞬間は各書物のように別々のものである。なんらかの力によって整列させ、連続性を与え、時間化することは可能だが、それでもなお、一冊目の書物と二冊目の書物は別個の書物であると言い得るように、この世界観から見ると人格の同一性を与える連続性も、個別へと還元される。過去の自己が現在の自己と連続的で同一的であるのは、時間化の網の一経路でしかない。
 思いつきに、別の例を出してみよう。あるマンションがある。各部屋の間取りは規格化され、交換可能な空間である。これを一個の部屋について時間的に変化を追うことができるのと同様に、ある瞬間のマンションにおける各部屋をランダムに訪問するとしても、これも一つの時間と言い得る。そしてこの二つの見方を混合して時間化することも可能である。
 こうした観点からヒトの同一性というものを考えてみると、それは時間化に伴う副産物でないだろうか。

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