湿原工房あるいは失言工房

木漏れ日考

2016/04/04 21:49 投稿

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 日暮れ前、木立の脇を歩くたび、日輪が囁いた。比喩ではなく、人のお喋りの印象をそなえ、木立の枝の網目の奥に見え隠れする日輪は、光の言葉を注いでいた。太陽の言語を知らない俺にそれは聞き取れなかったが、その意味を解したいと思って何度となくそこを歩いたが、とうとう知ることはなかった。
 半ばは期待していたが、しかし半ばは冗談でしていた。木漏れ日の明滅がなにかを指示する言葉だと本気で信じていないうえでやっていたのは、奇人を演じていたわけではない。囁きかけと同じリズムがあることが面白かった。リズムといっても囁きかけのリズムというものを知っているわけではないのだが、にもかかわらず、それは囁きかけのリズムを印象させている。この言葉でないがお喋りに似ている、その類似を言葉で理解したかった。……と、これについても結論付ける前に潰えた、別の発見があったからだ。
 思ってみれば、日が話しているとして、その聞き手は誰かといえば俺であるようだ。しかし、日が話すのは俺が歩くときだけだ。立ち止まれば日も止まり、すなわち呟きをやめる。ここまで、話す主体は日と書いてきたが、どうやらそうではない。日は器官のひとつにすぎない。聞き手の移動が語りかけ行為を可能にしている、また木立が二者間に立っていることも要素のひとつだ。太陽もそれら他の要素と同等に、諸要素のひとつに過ぎない。すると、語りかけていたものは誰か、という問いが生起する。太陽は器官であり、木立も器官である。語りかけを受ける俺の歩行も、器官のひとつである。主体は日や木立や歩行のいずれかに収束するのではなく、ヒトが諸々の器官(臓器、表皮)の複合体としてヒトであるように、日、木立、歩行……それら諸器官の複合体として、語りかけの主体があるのではないか。つまり俺という主体がありながら、別の主体として俺の身体の一部から全部が使われていて、俺と木漏れ日のふたつの主体が、重なっている部分がある。同様に日と木立とも個別の物体でありながら、木漏れ日の囁きを可能にする器官のひとつだ。
 自明と思われていた輪郭線が別の枠組みに溶けていくような感覚を得た。眼前に見、了解している事物は、すでに俺という主体によって輪郭線を引かれた状態として現れているものであって、実のところその輪郭線は絶対的ではない。


ということを高校の頃、犬を散歩させながら思っていた。

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