【三浦宏文 みうら・ひろふみ】長崎市生まれ。東洋大学文学部印度哲学科卒業。同大学院文学研究科仏教学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。東洋大学東洋学研究所研究員を経て、現在、桜美林大学オープンカレッジ講師、実践女子短期大学講師、神奈川県立衛生看護専門学校講師。その他、複数の予備校や高校でも講師を務める。専攻分野はインド哲学だが、教育問題や映画、テレビドラマやアニメーション等も考察の範囲に置く。著書に『インド実在論思想の研究-プラシャスタパーダの体系』ノンブル社、『絶対弱者-孤立する若者たち-』長崎出版(渋井哲也との共著)がある。

 最近学校関係は入試の時期に入り、貧乏暇なしの非常勤の身の私にも少し時間的に余裕が出来たので、見逃していた映画をまとめて観ている。そうした中で、フランス映画の『少年と自転車』とイタリア映画の『人生、ここにあり!』を観た時、ふと昨今の体罰問題やワイドショーの犯罪報道のことが思い浮かんで暗い気持ちになってしまった。結論から言うと、どうも日本社会全体が「こらえ性」がなくなってきているのではないかという漠然とした不安感に襲われてしまったのだ。最近の日本は、全体的に自分の痛みにも他人の痛みにも、ぐっと我慢してそれを一旦飲み込んで咀嚼(そしゃく)し、それから応ずるという余裕というか耐える力、すなわち「こらえ性」がなくなってきているのではないだろうか。

野良犬のような不良少年

 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟監督の映画『少年と自転車』(2011年/ベルギー=フランス=イタリア)は、二人が日本で耳にした実話に着想を得た映画で、父親の育児放棄にあった少年の物語である。本作品でも主人公のシリル少年は父親に捨てられる。面白いのは、このシリル少年が全くかわいげがなく、大人の言うことなど全然聞かない「いやなやつ」だということ。周りの大人が手を差し伸べても、むしろそれを噛みつくような勢いなのである。慈母のような愛情を注いでくれる終末だけの里親サマンサにも嘘をつき、揚げ句に怪我をさせたりもする。まさに「野良犬のような不良少年」だった。

 だが、彼の周りの教師や福祉施設の諸君である大人たちは誰一人体罰のようなものを彼に加えない。どことなく、子どもはそういうものだ、という諦めのようなものがあるようだ。

 実は、こういうわけのわからない、周りの言うことを全く聞かない不良少年というのは、私が少年時代だった1980年代の青春ドラマには定番の存在だった。『3年B組金八先生』にも、『スクール・ウオーズ』にも教師の理解を越えた悪さをする不良少年が登場し、周りを困惑させる。そういう子たちが教師や周囲の献身的な支えによって少しずつ心を開いて行くというのがこういう青春ドラマの醍醐味だった。

「かわいい子」にしか感情移入できない?

 ところが、この映画のレビューを見てみると、どうもこの主人公の少年シリルに感情移入できないというものが多くみられたのだ。いわく「態度が悪すぎる」「上から目線の態度が気にくわない」などである。たしかに、一見すると金髪の白人のかわいらしい少年なので、余計違和感があったのかもしれない。考えてみれば、今の日本の映画やドラマは気持ちの悪いくらい見事に「大人の期待するいい子」を演じきっている「子役全盛期」である。これに慣れてしまった日本人には、シリルのような「野良犬のような不良少年」は違和感しか感じないのかもしれない。

 だが、本来の子どもは、恐らくこういう大人の支配を簡単に許さない存在ではないのか。それは、しつけをされていない子どものわがまま放題のことではない。 
 しっかりとした内面を持つがゆえに、その内面の独立性を守るためには、人を傷つけることも孤立することも厭わないという意味なのだ。 そして、そういう子どもの内面の独立性を尊重しつつ接するためには、周りの大人は裏切られ続けたとしても、「こらえて」手を差し伸べ続け「待つ」しかない。少なくとも「暴力」によって簡単に解決が得られるようなことではないのだ。

失敗を許容しやり直しを待つ

 ジュリオ・マンフレドニア監督の『人生、ここにあり!』(2008年/イタリア)は、イタリアの法律によって病院から出された精神病者たちが、主人公で熱血漢の左翼の組合員ネッロにうながされて、自らの自立の道を歩み始める物語だ。

 当時のイタリアでは、1978年に施行されたバザーリア法によって精神科の病院をどんどん無くしていき、精神疾患を持った人々を社会に出していた。 しかしネッロの配属された組合では、当初厳格なルールで精神科医に管理され、そのルールを破ると、倦怠感や眠気を誘ったり男性機能が衰えたりする副作用のある薬を過剰に投与されていた。いわば、治療(投薬)という名の体罰だ。

 これは、この精神病患者たちの一部が暴力事件や性犯罪を犯していたことが原因だった。ところが、ネッロはそんなことはおかまいなしに、彼らへの投薬量を減らすことで、彼ら彼女らの人間性の復活を目指す。その結果、彼ら彼女らはたびたびトラブルを起こしつつも、少しずつ普通の人と同じ生活を取り戻して行く。ところが、クライマックス・シーンである悲劇が起る。その悲劇に落ち込むネッロに、当初厳格なルールで患者を管理していたベルベッキオ医師が言い放つ。

「彼ら(精神病患者)を相手にしていたら、必ず救えない人が出る。失敗も犯す。でも、そこで落ち込んでなにもしなくなることから、何が生まれる?失敗の悲しみをみんなで分け合い、改善する努力をすることが必要なんだ」 



 人間はどんな人も生きている以上、失敗を犯す。トラブルも犯す。問題は、その量と質をどう公共の福祉と折り合いがつくレベルに治めていくかである。失敗や間違いをおかしやすい存在のためには、周りの寛容さがある程度以上必要になってくる。

 例えば、歩いていた小さな子どもが転んで泣き叫んでいる時、大人が抱き上げることが一番早い解決策だ。あるいは、ベビーカーに乗せてあらかじめ歩かせないようにする方が、なお効率が良いだろう。しかし、そのことによってその子どもは転んだ時立ち上がる能力が養えないまま育ってしまうのではないか。どんなにイライラしても、時間がなくとも、立ち上がるまで「こらえる」ことも、時には必要になってくるだろう。この映画の主人公ネッロや精神科医たちは、少なくともそういう「こらえ性」があった。