最近不思議なことに過去の自分と対面する機会をもらうことが多い。
日本に帰った時に各地で楽屋に友達が訪ねに来てくれるのだ。前に何度か会ったことがある知り合い。昔一緒に仕事をした仲間、学生時代の同級生、幼馴染。NYやアトランタでは小学生の時の同級生が会いに来てくれた。息子さんたち2人を連れて。
「ええ、あの○○?」
「覚えてる?」
「だって修学旅行行って一緒に風呂も入ったよね」
「そうそう、覚えててくれたんだ」
もちろん覚えている。しかし記憶の顔と目の前の人物がなかなか繋がらない。あの頃(と言っても45年以上前になる)の同級生の面影を、目の前の彼に一生懸命探す自分がなんだかおかしかった。日本の企業の駐在員でアメリカにいる彼の息子さんたちは、「僕たちは、夏の決心、世代ですよ。アメリカで会えて嬉しいです」とニコニコ笑う。
へえ、これまた驚いた。本当の時間は自分の中とは違う流れ方で、思ったよりもずっとずっと超速で流れていることを痛感する。友の目に僕はどう映っていただろう。気がつくと他のアメリカ人のゲストと英語で喋る彼。僕も他のゲストとの会話に夢中になる。
僕は中学時代、1年、2年と親の転勤で北九州、小倉にいたのだが、NYのトミジャズで数年前その中学の2年間とも同じクラスだったTと再会した。トミジャズの方に「懐かしい人ですよ」と紹介されて「おお、T、なんでここに」と思わず声が出てしまう。それほど中学時代と全く変わってなかったのだ。Tは照れ臭そうに「今度一緒にご飯でもどうだい?」と誘ってくれた。あの頃はTがテニス部、僕がブラスバンド部で頑張っていて、直接の深い交流はなかったように記憶している。年賀状はやりとりしたっけ? Tのしっかりした安定感のある文字は覚えていた。勉強も良くできて、いつも背筋をピンと伸ばして授業を受けてたTと、初めて親しく40年ぶりに異国で酌み交わすおかしさよ。
「僕は下戸で飲めないんですよ。でも大江君は気にしないで飲んでくれていいからね」
走馬灯のように一気にあの頃の思い出が蘇る。僕のワイングラスとTのお茶が乾杯の音をたてる。
当時、僕はブラバンで3番目のクラリネット奏者だった。ある日、なかなか鳴らない音に辟易しながら校舎の3階の小さなバルコニーに椅子を置いてタンニングの練習をしていた。校庭では女子から憧れられているテニス部の連中がウオーミングアップのジョギングをしている。その中にTがいた。運動場から舞い上がる砂の色がキラキラして眩しかった。