気づいたときにさっきまでそこにあった確かな重量はすでになく、着慣れたジャケットはジグザグに走るぼくの体の周りを優雅に心もとなくただ揺れていた。
友達が家に来るので何か作ろうと近所のスーパーに買い物に来たのは数時間前のこと。ぼくは普段から財布を右のポケットに縦方向に入れる癖があり、野菜やら肉やらを探すときに右手が当たりその都度財布は浅いポケットから外へ外へと飛び出していたのであった。だからそれがいつ床に落ちたのかも気がつかなかった。
迂闊だった。
ましてや肉はポークのミンチで団子を作ろうだの、シュリンプで海老マヨを作ろうだの、そんな頭で方々の棚に集中しているときに、財布が落ちたことなんて気づくはずもない。顔面蒼白とはこのことだ。
急いで自分が歩いた分だけ踵を返し、あちこちに戻って床の隅まで確かめる。しかし財布の痕跡などもはやどこにもない。野菜コーナーを重箱の隅的に探す。肉や鮮魚のコーナーも乳製品の列も試食のデモンストレーションをする女の子の周りさえもきょろきょろ探し回る。
「どうしたの? なにか無くしたの?」
「財布なんだよ。これくらいの茶色の縦長の見なかった?」
「うーん、見ないけれど」
そのうちに「なんだなんだ」と物見高な人たちが集まってくる。
「財布だってさ」
「無くしたの?」
「お気の毒に」
「そりゃ戻ってこないさ」
やばい。しゃれにならないとだんだん冷や汗状態になる。あれにはクレジットカードからバンクカード、ソーシャルセキュリテイカードまで無造作に入れてあった。その全部に加え、キャッシュもおろしたばかりだった。
ぼくはビデオの巻き戻しのように来た道を更に更に猛スピードで戻り、いつしかスーパーの表のスタート地点にまで戻った。
「そんなにはーはー言っていったいどうしたの?」
「いや、実は大変なんだ。財布を落としたんだよ」
「わ、お気の毒さま。ここはブルックリンだよ。見つかるわけないじゃない」
「…………」
形相を変えた早歩きの東洋人の男があちこちをしらみつぶしに見て歩く様は、のんびりしたスーパーの買い物客たちには奇妙に映っただろう。瞬く間に「かわいそうな財布をなくした男」の周りに人垣ができる。
そもそもこの地区で一旦落とした財布が戻ってくることなんてありえないのだ。上の階の人の引越しの荷物出しを手伝っているときに、廊下に置いてあった自分の自転車が邪魔になるだろうとつい気を利かして外のドアの前に置いたら、わずか40秒でなくなった。向かい側のアパートの前で日向ぼっこするお父さんたちが「さっき人が乗って行っちゃったよ」と笑いながらぼくに言うから、「なんで止めてくれないんですか?」と車道越しに声を荒げて聞き返した。すると「なんでって言われたって、なあ」外に一瞬でも鍵をかけないでものを置くものが悪いとでも言いたそうに彼は両手を開いておどけて見せた。
そんなことがあったので、ぼくはそれ以来自転車をもう二度と買っていない。買ったところで必ず誰かに盗まれる。そう頑なに思い込んでいるところがある。実際に誰かが誰かのものを盗むのを路上で目撃したときもある。自分だって関わりあうのが面倒で、そのまま側を通り過ぎたことさえあるのだから。どこか殺伐としたそういう景色になじまないと生きてはいけないのだ。
スーパーの近くには巨大なプロジェクト(低所得者用の住居)が何棟も立っていて、そこの住人たちの多くがベネフィットというカードで買い物をしている。これは俗にフードスタンプと言われるもので、所得の少ない人を助けるための政府の政策のひとつなのだが、業者かと思うくらい肉やチーズやコーラを買い込んでいる人がこのカードを何の感謝の意もなくレジで引っ張り出しているのを見ると、納得のいかない気分にもなる。
ときどき、偽札のおじいさんなんてのも出現する。これが一見は気のいいおじいさん風なのだが、実際はこれでもかというくらい繰り返し偽造札を使おうとするわけだ。
「また、おじさん、偽札使っちゃって」
「いやあ、知らなかったんだよ」
そんなやりとりのシーンを3回ほど見たことがある。
我が家に泥棒が入って大事なPCを一式盗まれたこともある。どうしてそんな緊迫したエリアに住んでいながら、ボッテガヴェネタの、いかにも100ドル札が何枚も入ってそうな財布を無防備に底の浅いポケットなどにちょこんと入れて出かけたりしたのだろうか。
自分を呪っても呪いきれない。この先何も戻ってはこないだろうと思うと、ぼくはひたすらうなだれ、現実に打ちのめされ、あのときの自転車泥棒を目撃したおじさんのように、両手を広げて大げさに「オーマイゴッド!」誰に言うわけでもなく、頭を振り続けるしかなかった。
そのうち「かわいそうに」と声をかけてくれていた人たちも三々五々に散り始め、ぼくはひとりその場に残された。レジはいつものようにベネフィットのカードで買い物をする人たちの値段をテンポ良く刻み続け、「これいくらだっけ?」なんて店員の素っ頓狂な高い声がぼくの頭の上をスピーデイに行ったり来たりする。
そんなとき、スーパーの事務所からヒスパニックの男がぼくに「おいでおいで」をしているのが見えた。
え? 僕ですか?
そうだよ、きみだよ。おいで。
ぼくは半神半疑で自分の鼻を人差し指で指したけれど、「早く早く」あまりに彼がそう言うので、手招きされるままに事務所に入っていった。
その男はどうやらスーパーのマネージャーのようで、そういえば何度かこのスーパー内で暴力事件が起こったとき、間に入ってレフリー的なことをしてなだめているのを見たことがある。その彼がぼくを事務所に招き入れた途端に後ろ手でドアを閉めて、こう言った。
「きみは財布を無くしたんだろう。そうだろう?」
「うん、そうなんだ」
「ちょっと君に見せたいものがある」
そのまましゃがみこむと金庫をガチャッと開け、新聞紙の包んだブツを出した。そしてそれを丁寧に剥くと、見覚えのある、茶色のボッテガヴェネタの財布がそこに現れた。彼は続けた。
「君の無くした財布ってこれじゃないのかい?」
こんなことがあるのだろうか? 僕の財布が戻ってきた。中身もそのままだ。ぼくはあまりの想像だにしない展開に声を無くしてただ頷いて彼の顔をしげしげ見る。彼はニヤッと一瞬笑ったかと思うと多くを語らずこう付け加える。
「もう無くしちゃダメだよ。気をつけないと命取りさ」
ぼくは懐かしい重さの感触を手のひらで確かめながら、「あの、これはいったい?」とひつこくも尋ねてみる。
「誰かが落ちてたよって親切に届けてくれたんだよ」
ええ? そんなことがあり得るのだろうか?
胸に熱いものが一気にこみ上げる。
自分は無くしたものに気を取られて自分の間違いを棚に上げて「低所得者のエリアにいるから」などと考えて勝手にぷんぷん憤慨していたのだ。
ロリポップを取り上げられてぐずるビーズ編みした髪の女の子の手を引っ張ってがんがんチキンをかごに入れるアフロアメリカンのヤングママ。ジンジャーエールを買うか買わないかで延々議論をするカップル。ホットケーキミックスの材料表を真剣に確かめて首を横に振り続ける老婦人。おそらくこんなふうに買い物をしている決して裕福ではないこの中の誰かがこの財布を見つけて事務所に届けてくれたのだ。
貧乏だから。低所得者の多い地区だから。盗みが多いから。そういうふうに人を一刀両断に決めつけて判断するのは大きな間違いである。
実際にホームレスを語る人物が地下鉄に乗ってきて、電車が走り出した途端いかに自分が今日買う食料分のお金もないかと演説し始める時、ほとんどのナイスな洋服を来た人たちは聞いて聞かないふりをする。ぼくを含めて。そんなときに率先してお金を入れてあげるのは、大概が工事現場から帰る途中のヒスパニックのにいちゃんだったり、まだ若い女の子だったりするのだ。それも1ドルや5ドル札を「大丈夫だよ」って、にっこり笑いながら。そのことを帰り道に思い出して恥ずかしくなる。
「りんごの街の木の下」には、人は見かけによらないという法則がある。この街にいると、社会的に格差の中で、差別されている側の人ほど人を根気良く当たり前のように助けているのがよくわかる。
もういちど自分のところに戻ってきた財布の厚みや感触を両手で確かめながら、この親切はいつかちゃんと誰かに返さなきゃいけないなと誓った。顔も知らない誰かに助けられて、今度は違う誰かを偶然にどこかでぼくが助ける番なのだ。
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りんごの木の下で ”In The Shade Of The Old Apple Tree”(1905)
作詞・作曲 ハリー・ウィリアムズ(Harry Williams) 作曲 エグバート・バン・アルスタイン(Egbert Van Alstyne)
1933年にデューク・エリントンがリバイバルさせてヒットする。ペトゥル・クラークがイギリス映画『Vote for Huggett』で劇中歌として歌った。日本では、ディク・ミネ、吉田日出子(舞台「上海バンスキン」)、おおかた清流(映画「シコふんじゃった。」)らが「林檎の樹の下で」としてカバーしている。
ペトゥル・クラーク
https://www.youtube.com/watch?v=3rUri2TJyiI
デューク・エリントン
https://www.youtube.com/watch?v=NOjSwBHiEZs
マイルス・ブラザース
https://www.youtube.com/watch?v=8osQsJm3ufA
デック・ミネ
https://www.youtube.com/watch?v=m5NzZNWr1-g