月刊せも通

回帰する歌たち ――中島みゆきにおける「リメイク」が語るもの――②

2014/04/12 12:00 投稿

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2 歌詞のリメイク――「片想」のケースをめぐって

 個々の曲のレベルでリメイクの問題を考える場合、まずひとつの興味深いケースを提供しているのが、一九七九年のアルバム「親愛なる者へ」に収録された「片想」である。この作品は、一九八七年にリリースされた(中島みゆきの唯一の)ライヴアルバム「歌暦」に、「片想'86」とタイトルを変えてリメイクされている。

 アルバム「親愛なる者へ」のオリジナルバージョンで、中島みゆきは「片想」を次のように歌っている(歌詞は以下の議論に必要な部分のみを引用する)。

目をさませ 早く 甘い夢から
溺れているのはおまえだけ  [1]
……
目をさませ 早く 甘い夢から
うかれているのはおまえだけ [2]

……
手を放せ 早く すがる袖から
溺れているのはおまえだけ  [3]
……
手を放せ 早く すがる袖から
溺れているのはおまえだけ  [4]
手を放せ 早く 甘い夢から
溺れているのはおまえだけ  [5]

 私が所有している「親愛なる者へ」のLP(レコード番号:C25A0031)の歌詞カードはこの実際の歌の内容と一致しており、『中島みゆき全歌集』(朝日新聞社)、『愛が好きです』(新潮文庫)の両歌詞集においても同様である。しかしながら、現在発売されているCD「親愛なる者へ」の歌詞カードでは、上記の[1]~[5]がすべて「うかれているのはおまえだけ」と印刷されていて、しかも五箇所すべてに、「*『溺れているのはおまえだけ』とまちがって歌っています」という奇妙な注釈がついている。(従ってこの注釈は厳密に言えば、[2]では歌詞カード通り「うかれているのは……」と歌っていることと矛盾している。)つまりこの歌詞カードでは、[1][3][4][5]四箇所で中島みゆき自身が歌っている「溺れているのは……」という歌詞は、すべて「間違い」であるとして否定されているのである。従って現在では奇妙なことに、この([1]~[5]すべてを「うかれているのは……」とする)バージョンが、「片想」の歌詞のいわば「正規の」バージョンであるということになる。

 一般に、いったん(LP、CDなどのメディアで)発表された歌詞を変更することは、著作権登録などの手続き上、大きな困難を伴うようである。「夜会」のVOL.2からVOL.5までのビデオ/LDの歌詞カードに、「ライヴの構成上、歌詞と一部異なります」という注釈が入っているのも、明らかにそれが理由であろう。「片想」の場合は、少なくとも一度はリリースされたオリジナルの歌詞カードを差し替えたという点で事情は異なるが、いずれにせよ「まちがって歌っています」という奇妙な注釈は、「歌」とは本来自由なものであるはずだという中島みゆきの思いと、歌詞の同一性を強要する(著作権に象徴される)システムとのあいだの矛盾を暗示しているように思われるのである。

 そして、ライヴアルバム「歌暦」の「片想'86」では、第三のバージョンが呈示される。ここでは中島みゆきは次のように歌っている(当然、歌詞カードもこれに一致している)。

目をさませ 早く 甘い夢から
うかれているのはおまえだけ [1]
……
目をさませ 早く 甘い夢から
うかれているのはおまえだけ [2]

手を放せ 早く すがる袖から
溺れているのはおまえだけ  [3]
……
手を放せ 早く すがる袖から
溺れているのはおまえだけ  [4]
手を放せ 早く 甘い夢から
うかれているのはおまえだけ [5]

 このバージョンでは、いったん否定された「溺れているのは……」のフレーズが復活し、しかも[1][2][5]では「……甘い夢から」に対して「うかれているのは……」、[3][4]では「……すがる袖から」に対して「溺れているのは……」と、歌詞の前後の対応関係がきっちりとしている。「甘い夢」「すがる袖」に象徴される自己の幻想への自嘲、そしてそこからの訣別への意志がこの曲の主題だとすれば、それが最も客観的に表現されているのはこのバージョンであると言えよう。

 以上まとめると、「片想'86」も含めれば、「片想」の歌詞には三種類のバージョンが存在することになる。この三つを比較して、後の方のほど中島みゆきの「本来の意図」に近い歌詞であると推測することもできよう。すなわち、「親愛なる者へ」で実際に歌われている歌詞よりも歌詞カードに印刷された歌詞の方が、さらに「片想'86」の歌詞の方が、彼女の本来の意図に近いという推測である。

 しかし重要なのは、この推測が仮に当たっているとしても、「片想」の過去のバージョンがそれで否定されるわけでは決してないということである。「親愛なる者へ」に収録された「片想」では、歌詞の前後関係が混乱しているがゆえに、「甘い夢」「すがる袖」を幻想と知りながらも、そこから訣別できないでいる現在の自己の解決しがたい矛盾が、むしろ切実な心情として伝わってくる。それに対し「片想'86」では、自嘲も混乱もすでに客観視され、それゆえに この歌は、「幻想から訣別して歩き出そう」という力強いメッセージとして響くのである。そのいずれが「片想」の「本来」の姿であるかを詮索することにはあまり意味がない。聴き手にとってどのバージョンがより真実なものとして響くかは、聴き手自身が自らの生という文脈の中で、その歌をどう位置づけ、意味づけるかにこそかかっているからである。

                                                          MIYUKOLOGIE


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