月刊せも通

回帰する歌たち ――中島みゆきにおける「リメイク」が語るもの――①

2014/04/05 12:00 投稿

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1 過去と未来との往還

 「変わり続けることによって自分自身であり続けるアーティスト」という形容は、かつてボブ・ディランに対して用いられたものらしいが、この形容ほど中島みゆきという表現者の性格を端的に言い表わしている言葉も珍しいだろう。中島みゆきがつねに既存の成果に安住せず、つねに新たな表現形式や表現領域を求め続けてきたアーティストであることは、私自身も含めて多くの人が指摘してきたし、さらにはこの「前のめりのラディカリズム」にこそ、中島みゆきの表現者としてのアイデンティティを見出そうとする人も少なくないだろう。

 ただしこの「前のめりのラディカリズム」は、自己目的的な新しがりなどでは決してない。それはあくまでも、聴き手との「一対一」のコミュニケーションの回路を、より自由な、より開かれた、そしてより豊かなものにするためにこそ取られた姿勢なのである。「昔のみゆきさんの方が好きだった」というのはファンの自由である。しかし、「昔の中島みゆきこそ本来の中島みゆきだった」という類の断定に対しては、彼女は冷やかな眼差しを隠さない。そうした断定は、「現在の」彼女とのコミュニケーションの回路を閉ざした自閉でしかありえないからである。

 しかしながら中島みゆきが「前のめりのラディカリスト」であることは、彼女が自らの過去の作品を軽視するアーティストであるということを決して意味しない。それどころか、中島みゆきほど自らの過去の作品に執拗にこだわりつづけてきたアーティストも珍しいのである。いうまでもなくアルバムやシングルにおける多くのリメイク作品の存在はその端的な表われであるし、彼女のコンサートの曲目には、最新アルバム曲ないし最近の曲のみならず、かなり過去の作品が必ず加えられ、しかもそれらはしばしば、オリジナルとは歌い方やアレンジ、時には歌詞の一部までもが変更されて演奏されていた。

 そして周知のように、(VOL.6までの)「夜会」の最大の眼目の一つは、過去の作品を新たなストーリーの中に置き直すことによって、新たな意味を与えるという実験を行うことにあった。重要なのは、中島みゆき自身がその実験の動機を、「歌を自由にしてやりたい」という言葉で表現していたことである。すなわち、過去の作品に新たな意味を与え、あるいは再解釈するのは、必ずしも過去の作品が過去においてもっていた意味を否定し、あるいは新しい解釈のみを唯一の「正しい」解釈として打ち出すためではない。むしろ作品を、唯一の「正しい」意味、「正しい」解釈という檻から解き放ち、多様で豊かな意味をはらむ作品の生命力を引き出してゆくことこそが、そこでは目指されていたのである。それはいうまでもなく、聴き手との「一対一」のコミュニケーションをより自由で豊かなものにするという「前のめりのラディカリズム」と同一の志向に根差している。いわば、未来に向かってより自由なコミュニケーションを求めてゆこうとするヴェクトルは、同時に過去へも向かって、作品を意味の固定化から救出し、そして再び未来へと回帰して、その新たな生命力をはばたかせてゆくのである。

 従って、中島みゆきが自らの作品にどのようなリメイク、どのような再解釈をほどこしてきたかを個々にみていくことは、それらの作品がはらむ生命力、多様な「意味」の可能性のひとつひとつを検証する作業でもあるといえよう。本稿では、アルバムを中心とした録音メディアにおけるリメイクに範囲を限定し、いくつかの作品を思いつくままに取り上げながら、この作業にとりかかってみたい。

 なお、「夜会」を含むライヴにおける作品の再解釈は、更に興味深いテーマではあるが、いずれ稿を改めて論じることとしたい。

MIYUKOLOGIE


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