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大東亜戦争は日本が武力攻撃を受けて始まった戦争です。

2015/09/27 12:30 投稿

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大東亜戦争後、一番大きな問題は、
大東亜戦争の大きな流れが隠されている事です。

なぜ真の日本人までもが反日的な思考になってしまうのかというと、
大東亜戦争の大きな流れを知らないからではないでしょうか。

政治・軍体制がどうだったとか、
一つ一つの軍事作戦がどうだったとか、
戦争中に戦争犯罪が起きたかどうかとか、
そういう事よりも、大東亜戦争の大きな流れが一番大事です。

合法的に行動していた日本が不法な武力攻撃を受けて始まった戦争で、
相手が戦争をやめてくれなかったとしたら、

つまり本当に日本が自衛側であったとしたら、
政治・軍体制、一つ一つの軍事作戦、戦争中の戦争犯罪がどうであれ、
日本は応戦・反撃するしかなかったわけです。

そして、まさに日本が武力攻撃されて始まったのが大東亜戦争でした。

大東亜戦争は真珠湾攻撃で始まったのではありません。

さかのぼって大ざっぱに言いますと、

◆なぜ日本は真珠湾攻撃をしたのか?
→石油禁輸されたからです。

◆なぜ日本は石油禁輸されたのか?
→日本軍が条約で仏印進駐したからです。

◆なぜ日本軍は条約で仏印進駐したのか?
→アメリカが蒋介石に武器を輸送する仏印ルートを遮断するためです。

◆なぜアメリカは蒋介石に武器輸送していたのか?
→蒋介石に日本のみを武力攻撃させていたわけです。

◆蒋介石軍から日本軍を武力攻撃してきたのに、
なぜ被害側である日本が経済制裁されなければならないのか?
欧米と同じ条約による合法駐留の日本軍に対して
蒋介石軍は日本軍のみを武力攻撃してきたのです。
蒋介石は自衛でもなく何の通告も要求なく
日本軍のみを武力攻撃してきました。
アメリカによる蒋介石への資金・武器支援も
アメリカにとって何の自衛でもありませんでした。

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大東亜戦争

大東亜戦争の発端の日付については閣議決定と法律により、
当時の日本の認識は、はっきりしています。

1937年9月2日の近衛内閣の閣議で「支那事変」の呼称と
「支那事変は蘆溝橋事件が発端である」ことが閣議決定され、

1941年12月12日の東條内閣の閣議で
「今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ
支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス」
と閣議決定されているので「大東亜戦争」が正式な名称で、

1942年2月17日には「支那事変」の呼称を
「大東亜戦争」に改める法律第9号の閣議決定が行われていますので、

法的には大東亜戦争の発端は蘆溝橋事件となるわけです。

しかし戦争の原因を考察すれば
蘆溝橋事件は単なる地方軍閥との軍事衝突事件であり、
しかも蘆溝橋事件は1937年7月11日20:00の
『松井-秦徳純・停戦協定』で終了していますので、
停戦済の軍事衝突事件は蒋介石・中央政府軍が上海を侵略し、
無差別空爆する理由にはなりませんし法的根拠はありません。

支那事変・大東亜戦争の実質の発端は第二次上海事変です。

たとえ盧溝橋事変が発端だと解釈するにしても
蘆溝橋事件も第二次上海事変も、どちらにしても支那軍からの攻撃であり、
それに対して日本軍は応戦・反撃していたことに変わりありません。

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「大東亜戦争の大まかな流れ」

欧米人・欧米軍と同様に、
日本人・日本軍も条約で合法的にチャイナに居たのですが、
蒋介石軍が日本軍・日本人に不法武力テロ攻撃してきたから
日本軍は応戦・反撃していました。
(1937.7.7盧溝橋事件や1937.8.13~第二次上海事変)
日本からの和平提案を蒋介石が拒否し続けていたから戦闘が長引きました。
長引いた理由は英米が蒋介石に資金・武器支援していたからです。
日本は、英米が蒋介石に武器を輸送する援蒋ルートを遮断するため、
仏印と条約を結んで仏印に日本軍が合法的に進駐して
援蒋ルートを遮断すると、
英米が、被害側である日本に対して石油禁輸してきたので、
日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるため、
先手を打って真珠湾攻撃しました→日米戦争。
1937.7.7盧溝橋事件もしくは1937.8.13~第二次上海事変から始まる支那事変
と1941.12.8~日米戦争までを総称して大東亜戦争といいます。

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★盧溝橋事件(1937.7.7)の『松井-秦徳純・停戦協定(7.11)』後、

★1937年8月9日は船津和平会談の日だったが支那保安隊が
大山中尉と斉藤一等水兵を惨殺して和平会談をぶち壊した(大山事件)
この日の日本側の和平案は大幅に譲歩したものであった。
・塘沽協定の解消・梅津-何應欽協定の解消
・土肥原-秦徳純協定の解消
・冀察政権の解消・冀東特殊貿易の廃止
・非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復
・華北における自由飛行の廃止
・支那側が要求すれば上海停戦協定をも解消

★1937年8月13日~第二次上海事変。

―――――

中国における日本租界は、
1895年(明治28年)4月17日の日清講和条約(下関条約)や、
1896年7月21日の日清通商航海条約により
設置されていました。

欧米も中国と条約を結んで
中国に租界や租借地を設置していましたし、
中国に日本人が居たこと自体は
悪い事ではありませんでした。

1936年12月12日の西安事件で
蒋介石軍(国民党)と毛沢東軍(共産党)は
第二次国共合作し、以後、国共は日本と戦う事にしました。

【1937年7月7日 盧溝橋事件】
日本軍を銃撃してきた集団がいたので、
日本軍は、その銃撃してきている場所を
制圧・撃滅しました。
敵兵の遺体を調査した結果、
支那の国民革命軍第29軍の正規兵である事が判明。
7月11日20:00『松井-秦徳純・停戦協定』が成立し、
盧溝橋事件は終結しました。

盧溝橋事件で支那の国民革命軍第29軍が
日本軍を武力攻撃してきた動機が偶発的なものであれ、
国民革命軍第29軍の独自の判断であれ、
ソ連・コミンテルンからの指示であれ、
毛沢東の指示であれ、蒋介石の指示であれ、
たとえ盗賊の犯行であったとしても、いずれにしても
「支那側から日本軍に対して武力攻撃してきた」
ことに変わりはありません。

ちなみに日本が支持した汪兆銘・南京政府の樹立は
1940年3月30日なので、
まだ1937年7月7日の盧溝橋事件の時点では
汪兆銘の南京政府はありませんでしたし、
親日の冀東防共自治政府の軍隊も結局は盧溝橋事件後、
1937年7月29日の通州事件で日本人居留民260人を
虐殺しましたので、
「盧溝橋事件は支那軍側、支那側から武力攻撃してきた」
という表現でいいと思います。

何はともあれ日本軍を武力攻撃してきている者たちが
どこの誰で、どういう指示を誰から受けていようが、
とにかく日本軍は武力攻撃されているのですから
反撃して当然です。

たとえば、道を歩いていて誰かに襲われたら、
その相手の身元確認などせずに
逃げるなり反撃するなりするのが普通です。

軍隊が攻撃されたら、どこの軍隊でも反撃します。

盧溝橋事件以前も
中国側は散発的にテロ事件を起こしており、
盧溝橋事件も単なる地方軍閥(支那国民革命軍第29軍)との
軍事衝突事件で、
一連のテロ事件の一種と考えても差し支えありません。
また、盧溝橋事件があったからといって、
上海共同租界を攻撃していいということにはなりません。

本格的な大東亜戦争の始まりは
1937年8月13日~の第二次上海事変です。

1840年・英清アヘン戦争後、
欧米が中国と条約を結んで上海国際共同租界を設置。

1900年、義和団と清国軍が外国人を虐殺しまくったので
(義和団の乱)、
列国8ヵ国の軍隊
(英・米・仏・独・伊・露・オーストリア・日本)
が出動して鎮圧し、
戦闘事後処理の北京議定書1901.9.7(条約)により、
以後、欧米10ヵ国軍とともに
自国民保護のため日本軍も中国に駐留していました。

上海国際共同租界は特定の国の専管租界ではなく、
チャイナと最恵国条項を含む条約を締結した国であれば、
どの国でも進出していいことになっていました。

ですから日本人・日本軍は
上海国際共同租界に行っていました。

欧米が中国と条約を結んで上海国際共同租界を造り、
そこに軍隊を配置し、「中国と最恵国条約を締結した国なら
上海国際共同租界に来ていいよ」と言うから、
日本人は上海共同租界に行ったのであり、上海共同租界は
英米伊仏軍が警備して治安を維持していましたが、
日本も軍を出して警備地区の役割分担をして
治安維持に協力していたのであり、



欧米に日本は従っていたのに、協力していたのに、
1937年8月12日、蒋介石軍が「1932年の上海休戦協定」
に違反して協定線内に侵入し、
上海共同租界の日本人居留区域を包囲しても、
日本領事が「1932年の上海休戦協定」の
締約国である米英仏などで組織する
協定共同委員会を招集し、
蒋介石軍の撤退を要求する共同抗議、
および何らかの制裁措置を
講ずるよう提案を行ないましたが英米仏は無視しました。

翌13日午前9時30分ごろ、
蒋介石軍が日本人町を武力攻撃してきたので、
その地区の警備に当たっていた日本海軍陸戦隊が
応戦したものです。
これが支那事変の始まりであり、
大東亜戦争の始まりでした。

日本本土から援軍(上海派遣軍)が上海へ向かい、
蒋介石軍を追い払いました。
蒋介石は南京に逃げたので
増援の第10軍とともに南京を攻略。
蒋介石は武漢に逃げたので日本軍は追撃して武漢も攻略。
次に蒋介石は重慶に逃げました。
日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、
重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、
重慶爆撃を行ないました。

米英は不法な蒋介石側に
強力な資金・武器テロ支援をしていたので、
日本から蒋介石への、
たび重なる和平提案を蒋介石は拒否し続けました。
米英は、日本と中国(蒋介石)の戦争を終わらせてくれなかったのです。

アメリカが蒋介石に武器輸送していた援蒋ルート
(蒋介石支援ルート)を、
日本が仏印と条約を結んで
日本軍が合法的に仏印に進駐して
仏印の援蒋ルートを遮断すると、
アメリカは、合法側・被害者側の日本に対して
石油禁輸などの経済制裁を仕掛け、
中国から日本だけ出て行けと(ハルノート)、
理不尽で不法な事を要求していました。

日本は石油などの資源がないと
国として立ち行かなくなるので、
蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるため、
真珠湾攻撃をして日米戦争となりました。

このように大東亜戦争は日本へのテロ攻撃で始まり、
日本への原爆テロ攻撃で終わったのです。
支那事変から日米戦争までを
総称して大東亜戦争といいます。

欧米が作った条約に日本は従うしかないし、
日本は従っていたのに、
上海共同租界の日本人・日本軍が攻撃を受けているのに、
治安を維持すべき英米軍は知らん顔したのです。
上海共同租界内の集団的自衛権は発動されませんでした。

日本人町には日本人以外の
欧米人・中国人も住んでいました。
日本人が多く住んでいたというだけの地区です。

上海共同租界は中国ではありませんでした。
上海共同租界の外が中国でした。

日本の政治・軍体制が悪いから
蒋介石軍は武力攻撃してきたのではありません。

中国の正規の軍隊(蒋介石軍)が武力攻撃してきたので、
単に「治安が悪い」という話でもありません。

第二次上海事変で蒋介石は自分から自衛でも何でもなく
何の通告も要求も宣戦布告もなく、
突然1932年・上海停戦協定線を越えて上海共同租界に協定違反で
侵入してきたうえ、日本人町を包囲して武力攻撃してきて
日本人町以外にも無差別爆撃で欧米日などの民間人3000人を虐殺し、
日本からの和平提案を拒否し続けました。
その蒋介石側に資金・武器支援した欧米、
さらには蒋介石軍に応戦・反撃していた日本への経済制裁を強化した米国。
上海共同租界内を各国の役割分担で警備の任にあたっていた
日本軍こそが、いや、日本軍のみが、
「租界侵略して来た蒋介石軍」と戦って抵抗して租界を守ったのです。
爆撃に来た蒋介石軍機に対して日本軍は高射砲や戦闘機で応戦しました。
上海租界に大きなテロ被害を与えた蒋介石軍が去って行くのを、
だまって見ているだけでいいわけがありません。
相手を制圧して蒋介石を逮捕し、謝罪と賠償は当然の事、
再発防止に向けた協定線の位置の見直しや蒋介石軍の規模縮小や配置、
責任者らの処罰とともに、上海租界の警備についても
締約国内で話し合いを持つべきでした。

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【満州事変】
日本の満州権益は1904年2月8日~1905年9月5日の
日露戦争の戦後処理条約
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』

『満州善後条約(1905年12月22日)』
によって得られた正当なものでした。

1931年(昭和6年)9月18日、
奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、
敵兵が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)。

現場に駆けつけた日本の鉄道守備隊(関東軍)に
対しても敵兵は攻撃を仕掛けて逃げました。
日本の鉄道守備隊は軌条に沿って追いかけ、
敵兵は張学良の本拠地である北大営に逃げ込みました。
その北大営からも日本の鉄道守備隊に銃撃してきたので、
関東軍が本格的に報復軍事行動を起こして
満州事変が勃発しました。
攻撃されて反撃するのは国際慣習法上の自衛行為です。

このように柳条湖事件は
「犯人は支那軍」というのが本来の通説であり、
日本(関東軍)犯行説が出たのは大東亜戦争後です。
関東軍指導者が殆ど逝去された後に、
本当かどうか検証のしようがない「証言」のみが出て、
なぜか通説になってしまっている状態です。
物的証拠も状況的証拠も確たるものはなく、
主犯とされる石原莞爾も一貫して否定しています。
1931年9月15日、奉天総領事の林久治郎が「推察」として
「関東軍が近く軍事行動を起こす」旨の
機密電報を幣原外相に送ったことにより、
それを抑えるためとして建川美次少将が満州・奉天に
派遣されますが、「推察」の根拠が検証されなければ
証拠にも論拠にもならず、
派遣されたこと自体は何の根拠にもなりません。

鉄道爆破・守備兵襲撃などされたら
応戦膺懲するのは当然の事であり、
鉄道破壊犯討伐という鉄道守備の行動でした。

満洲事変は1933年5月31日の
『塘沽(タンクー)停戦協定』で終結しました。

4年後の1937年になって
満洲事変を理由に盧溝橋事件や第二次上海事変など、
まったく別の場所で
武力攻撃を仕掛けてくることは不法です。

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★1937年11月2日~第1次トラウトマン和平工作で日本側が提示した内容は、
第二次上海事変が始まる前に日本側が提示した船津和平工作(1937.8.9)と
同じ内容で非常に寛大なものだった。
白崇禧将軍も「たったこれだけの条件なら何のための戦争か」
と言ったくらいの日本側の譲歩だった。

広田外相が正式に駐日ドイツ大使に仲介を依頼し、
日本側の和平条件を提示したが蒋介石は応じなかった。
日本は英米にも「寛大な内容だから蒋介石に応じるよう説得してほしい」
と頼んでいたのだが、米英も努力してくれなかった。
広田外相は「受け入れずに戦争を継続するなら条件を加重する」と警告。
このとき日本は大本営設置も南京攻略も考えていなかった。
【1】第1次条件の時(継戦前)、すでに大譲歩の条件だった。
【2】そもそも、この事変は蒋介石の上海侵略で始まった。
【3】広田外相は「戦争を継続するなら条件を加重する」と警告していた。
【4】蒋介石は第1次条件を無視して継戦した。
蒋介石が損をする条件でなければならないはずであって、
継戦後に継戦前条件で終わりにしたら日本の泣き寝入りで終わるようなものだ。
―――――――――――――――――
蒋介石は侵略して起こした戦闘のあげく、大譲歩の和平案を無視して継戦し、
被害を甚大にした後、勝てそうにないからといって
12月2日に継戦前の条件を呑む事を「和平を受け入れようとしていた」
というなら全くおかしな話である。
―――――――――――――――――
★1937年12月21日~第2次トラウトマン和平交渉は、
すでに南京攻略後で日本側に何万という死傷者が出ていたから、
以前のような寛大な案では済まなくなっていたし、
あいまいな回答で引き延ばし続けられた。
★1938年1月2日、ドイツ大使トラウトマンが日本の第2次和平案の返事を
聞くため蒋介石を訪問しようとしたが蒋介石は会わず。
★1938年1月15日、日本の第2次和平案も蒋介石が拒否。
★1938年1月16日、第一次近衛声明「国民政府(蒋介石)を相手とせず」

しかしながら1940年3月30日に汪兆銘の南京政府が樹立するまでは、
汪兆銘も蒋介石を主席として迎える余地を残すため、
汪兆銘は主席ではなく主席代理としていましたし、
日本は対重慶和平工作の努力を続けていました。

汪兆銘・南京政府樹立後も、
もし蒋介石側から日本に和平の打診があったなら、
必ずや日本は応じていたはずです。
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「コミンテルンの工作が~」について。
http://wk.tk/qGhfTH
トルコ軍機によるロシア軍機撃墜
http://wk.tk/MkZGKF
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コメント

とまと船
No.12 (2015/09/30 21:15)
>>11
せきやさん、いつも丁寧にありがとうございます。

せきやさんは、当時の事情にかなりお詳しいと思います。私は戦後に生まれましたが、私の世代が受けた学校教育や、先に挙げました市販本は、当時の日本にも非があると思える内容でした。しかし、それもまた多分に偏った見方だったかもしれません。

「歴史は勝者が作る」と言われることがありますとおり、大戦の勝者たる連合国の色眼鏡も入っているのでしょう。

自分の知識の浅さと、勉強不足が分かり、とてもためになりました。ご教示いただきありがとうございます。

せきやさんのように、「日本側の立場で考える」方は今後の日本に絶対必要と思います。そして、戦後のいわゆる「自虐史観」が見直される動きもあるようですし、ニコニコに居られる若い方にも... 全文表示
関矢夕樹 (著者)
No.13 (2015/10/01 10:09)
>>12
No.12 とまと船さん

そう おっしゃられると、何か私のほうが申し訳ないです。

国内外で一番左の視点からでしか日本が見られていないので、
もはや一番右の視点というか「日本から見たら、こうなんだよ!」
という意見を見てもらう事は大切なことだと思います。

私は、当時の日本も発信不足ではなかったかという気はします。
日本は もっと世界に自国の主張をして
理解を得る努力の余地があったのではないかと思うのと、
それは、いま現在の日本政府にも言えることではないでしょうか。

「大東亜戦争の大きな流れ」以外は、
けっこう、いろいろと語られていますので、
この記事以外は投稿する予定はありません。
関矢夕樹 (著者)
No.14 (2015/10/03 07:45)
>>11
私の No.11 の投稿の
「日本軍のほうから支那軍を【反撃】して何の得があるんですかね?」

「日本軍のほうから支那軍を【攻撃】して何の得があるんですかね?」
の間違いです。
【反撃】を【攻撃】に訂正いたします。
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