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けいおん!!で描かれているもの・描こうとしているもの(ニコニコ一挙放送を見て)

2014/12/16 00:46 投稿

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前回の記事は12月14日午前。つまり、けいおん!!のニコニコ一挙放送(1話~17話)までが終わった時点で書いたものです。今回の記事は今日、つまり18話~映画までを見終わって書いたものです。そして少し結論が変わりました。

 18話~映画までの一挙放送をみて感じたのは「けいおん!!」で描こうとされていたのは「大好きな友人と一緒にいて、おしゃべりし、遊び、何かをすることに夢中になる瞬間」、つまり「誰かが好きなこと、楽しいことに夢中な瞬間」の空気、雰囲気、感情なのではないかと思いました。これもまた、仕草や表情を見て思ったというだけのことなのでそこを了承して読んでください。

 そもそも好きな人と一緒にいて、何かをして楽しいという感情は、人の負の欲望と同様に理屈を超え本能に基づく欲求だそうです(マズロー)。それに夢中になる瞬間の心、空気。人は夢中になる瞬間周りの全ての雑音が消え、その人だけの時間、空間ができると言われます(島袋光年「エリヤ」)

本能に基づく、「好きな人と一緒にいる、何かをするときの幸福感」。それに夢中になる瞬間の心。そこには「いかなる才能も、強さも、苦しみも、悲しみも、システムも、現実でさえも、その中には入れない。」神がいるとさえ感じさせてくれる感情は、確かに人より少ないでしょうが私も感じたことはあります。

それこそが「けいおん!!」で描かれようとして、そして確かに描かれていたものではないかと考えます。つまり、「けいおん!!」では放課後ティータイムのメンバー5人の卒業という終わりがくる、時間が流れる高校生活のなかで、その幸せな瞬間を最後まで描こうとした作品なのではないでしょうか。

そう考えると、だからこそずっと主人公である平沢唯は友達と一緒に楽しさを感じることに一直線であり、けいおん!!の映っている世界はどこまでも優しく、苦しみも悲しみも描かれず、物語の起伏自体は少なくとも、映っているキャラクターはどこまでも楽しそうで幸せそうだったのかなと感じました。あるいは、京都アニメーションのスタッフがキャラクターを本当の我が娘のように丁寧に描いた結果としてそうなったのでしょうか。

だからけいおん!!で書かれているのは本当に最後の卒業回までも、「現在」だったのでしょうか。

ただし、これだと映画のラストシーンは視聴者(少なくとも私)にとって前回書いたラスト考察と意味合いが変わってきます。上記の幸福感を感じた経験というのは、「現実の大人になってからも財産であり、原動力となるもの」であります。その意味では、放課後ティータイムのメンバーの絆、過ごした時間の想いというものは卒業しても終わりません。しかし、「大好きなメンバーと共に過ごすことに夢中になれた高校時代」は間違いなく終わりました。

高校時代の日々が意識しなくとも未来につながる、しかしそれでも高校時代の日々は終わったのです。私がそれを初めて感じたことが「映画けいおん!!」のラストを見終わった後に、少し寂しさを感じた原因でしょうか。

ただし、放課後ティータイムのメンバーは作中で描かれた時間を糧に、新しい「現在」を楽しみつづけるのでしょう。現実はこんなに甘くないとの意見、それはごもっともです。しかし
「けいおん!!」で彼女たちが見せてくれた「神すら感じさせてくれる、私たちの周りにもある瞬間」、それはすべての土台です。それだけでは駄目です。しかし間違いなく現実においても最も重要となる土台です(私が言えたあれではないですが)。その土台からあふれ出る情熱を信じれば、アメリカだって、イギリスだって、知らない世界だって、苦しい現実の中だって、「私たち、どこだって行けるよ。」確かにそんな気にさせてくれる少女たちの日常が描かれていたと感じます。正直私は友人に乏しく、そんなに人を思いやる性格でもありません。だからこそ、論拠、根拠なくともその私がこう感じたこと、それが上に書いた結論の根拠になればなと思います。

最後に「けいおん!」、「けいおん!!」と出会って2年。一挙放送を節目として個人的な感想を書いてみました。論拠、根拠もない感想文ともいえないものですが、「けいおん!」「けいおん!!」「映画けいおん!」をこれから見る方々の一助になれば幸いです。



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