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「艦隊これくしょん ~艦これ~」キャラマシン大公開!("駆逐艦"編) その4

2015/01/25 22:35 投稿

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秋雲「駆逐艦のその4だよ。ふっふーん、そんなに遊んで欲しいなら、提督の絵、描いたげようか こう見えても絵心あるんだよー、ふふーん
夕雲「夕雲型一番艦、夕雲、着任しました。提督、甘えてくれても、いいんですよ
巻雲「陽炎型の残り日産車と夕雲姉さん含む夕雲型のスバル車が紹介されて…はわわわわ…こんな時に探照灯つけるなんて秋雲のばかぁ
長波「案外楽だからって気が抜けてられないくらい紹介されているからな。田中少将の指揮に勝るとも劣らないね。提督やるじゃんか。いけるいけるよ

・戦艦→こちら
・航空戦艦→こちら
・正規空母→こちら
・装甲空母→こちら
・軽空母→こちら
・水上機母艦→こちら
・その他艦種→こちら
・重巡洋艦→こちら
・航空巡洋艦→こちら
・軽巡洋艦→その1その2
・重雷装巡洋艦→こちら
・駆逐艦→その1その2その3、その4、その5
・潜水艦→こちら
・潜水空母→こちら
・期間限定艦→こちら
・海外艦→こちら
・敵艦→こちら
・NPC艦→こちら

※パクリは厳禁。及び画像は無断使用を禁じます。
※車両説明は同じクルマ(S2000やGTO、NA型・NB型ロードスター等)を除き、完全版+オリジナルの解説(分かんない人のために艦隊の歴史等を艦これWikiから一部引用)のみ記載します。
※画像は「グランツーリスモ6(GT6)」となります。

■浜風
●日産/スカイライン GTS-t Type M(R32)'89

・パフォーマンスポイント(PP):436
「警察でも採用された、控えめなR32型」
 モデルチェンジのたびに薄らいでしまったスカイラインのスポーツイメージを、再びアピールして大成功したのが、1989年5月に登場したR32型スカイラインだ。
 R32型スカイラインといえば、復活を遂げたGT-Rばかりが話題になるが、実はノーマルモデルも、ベストFRと呼べるほどの高い完成度を誇っていた。というのもこのR32型は、90年までに世界で一番のシャシー性能を実現するという、日産の「901運動」によって生み出されたモデルだったからだ。
 その素性の良さは、なによりも引き締まったボディが主張している。大柄だったR31型から全長で100mm以上短縮され、歴代スカイラインの中でも屈指のコンパクトボディとなった。このあとに登場するスカイラインも含めても、直6エンジンを搭載するFRとしては、ひとつの完成形といえるパッケージングである。
 サスペンションは、前後とも完全新設計のマルチリンク式となり、接地特性が格段に向上。そのため、快適な乗り心地と同時に、目に見張る操縦性まで備えていたのである。
 核となったグレードはGTS-t Type MとGTS Type Sという2つのスポーツモデルだ。エンジンは、GTS-t Type Mが2L直列6気筒DOHCターボのRB20DETT型、GTS Type SはそのNA版のRB20DE型を搭載した。スペックはターボが215PS、27.0kgfm、NAが155PS、18.8kgfmを誇った。
 その他、ラインナップにはGT-R譲りの4WDシステムを組み込んだGTS4や、91年のマイナーチェンジで追加された180PSの2.5Lモデル、GTS25 Type Sなどがあったが、基本となるシャシーがしっかりしていたため、どのモデルを選んでも質感の高いドライブフィールを楽しめた点は、R32最大の美点といえる。
 2014年3月28日のアップデートにて実装された。
 出現海域として南西諸島海域西方海域の一部マップと南方海域全域と公式でアナウンスされている。現在確認されている海域は2-2、2-4、2-5、3-3、3-5、4-4、それと5-全てのボスマス。掘るなら周回が楽な2-2や5-2や5-4が良いだろう。建造での出現は告知もなく、出現報告もされていない。
 初期装備で爆雷を装備している珍しい艦。改造後に一応電探を持ってくる。
 対空対潜が高めでかつ穴の小さいバランスの良いステータスを持つ。護衛艦として何度も対空戦を経験したことから対空の最大値が高く島風雪風とほぼ同等。代わりに火力が若干低い。対潜は初風、舞風、秋雲とほぼ同じ。駆逐艦としては高めだが夕雲型には届かない。
 激戦を何度も生き延び、加えて運を天に任せて危険な救助を成功させた(小ネタ参照)という逸話から運が高め。
 改造可能レベルが30と高めなので注意。
 例のアレがと違いそのまま目に見える通りでかい。そのこともあってか、wiki内や雑談や他所で乳風と聞けば十中八九浜風のことを指す。
 磯風改の時報にて、「浜風にやり方は聞いてある」という料理を食べた提督がその後轟沈。磯風本人の作り方が原因だとは思うが、余計な風評被害を受けかねない事態となった。
未だ実装されていない時報を以って、是非そんな風評被害を吹き飛ばしてもらいたいものである。
 「浜風」とは海風の別称。本艦は2代目。磯風型の初代ではレイテ沖海戦で著名な栗田健男、第三水雷戦隊司令になった山内豊中や秋山輝男が艦長を務めている。
 1939年11月20日に浦賀船渠にて起工し、1940年11月25日進水、1941年6月30日に竣工。実装前の公式告知で「横須賀生まれ」とされていたのはこのことに拠る。
 竣工後に東宝映画「八十八年目の太陽」(滝沢英輔監督、1941年11月公開)に建造中の駆逐艦「ハヤカゼ」役として出演している。駆逐艦らしからぬ胸部装甲はひょっとして・・・
 開戦時は『浜風』『谷風』と『磯風』『浦風』で第17駆逐隊を編成。空母機動部隊の護衛役としてハワイ沖、ラバウル、ダーウィン、ミッドウェーと各地を飛び回っていた。夜戦台詞の「対空戦だけじゃつまらない」という台詞は17駆のこの経歴も影響しているものと思われる。
 ミッドウェー海戦では、蒼龍の壮絶な最後を見届け、『蒼龍沈没セリ 一六一五』の電文を発した。南雲中将からは、磯風と共に「蒼龍を護衛しつつ後退せよ」と命じられたのだが、当の蒼龍は機関停止、消火能力喪失の上に激しく炎上中で、命令の履行は不可能であった。その為、代わりに救助活動を実施していたのだが、助けようのない蒼龍の傍らにずっといた彼女と磯風の無念は、いかばかりのものだったか・・・
 43年2月にガダルカナル島撤退作戦に参加した後一度内地で3ヶ月ほど整備してから再びソロモン方面へ進出。クラ湾夜戦・コロンバンガラ島沖海戦を無傷で乗り切るも、第一次ベララベラ海戦で缶室浸水の損傷を受け、9月21日に呉に戻り約1ヶ月修理を受けている。
 修理後の1944年にはリンガへ進出し、編入された雪風と共に主に船団護衛等に従事。6月のマリアナ沖海戦と10月のシブヤン海海戦にも参戦している。シブヤン海では浜風は損傷を受けたため、大破した武蔵の護衛につけられ、武蔵の沈没に立ち会うことになった。この時に約800名、隣にいた清霜を含めれば計1423名の武蔵乗員を救助しマニラヘ撤退した。
 11月に日本へ帰ったのだが、その途中で浦風金剛を潜水艦「シーライオン」の襲撃により失う。このとき、駆逐隊司令の谷井保大佐が浦風で戦死したため、最も先任である浜風艦長の前川万衛中佐が第17駆逐隊司令代行と旗艦の役目を託されている。その後、長門の護衛をして横須賀へ帰り着く。
中破カットインで下記の信濃と並び金剛の名前を挙げるのは上記の件に拠る。
 帰ってすぐに呉へ回航される空母『信濃』(未実装)の護衛で横須賀を出発、呉に向かうも『信濃』は雷撃により戦没。僚艦と合わせて約1400名の信濃乗員を救助し、翌日呉へたどり着いた。この時信濃は17駆逐隊が進言した潜水艦警戒重視の「昼間・沿岸航路」を取らずに空襲対策重視の「夜・沖合航路」を選択。それが裏目に出て潜水艦に撃沈された。クリック時に信濃に言及するのはこの一件が元。この船の救出活動は短艇を利用しない独特の方法を取っていた。確実だが時間がかかり、もし敵襲を受けたら極めて危険であった。不安になった武田水雷長は前川艦長に救助を切り上げるよう具申したところ、艦長は「ここに泳いでいる人達は、我々が助けねば誰も助けてくれないだろうそれははっきりしている だが我々が救助の中で敵の攻撃を受けるかはだだったら最後の一人まで助けようではないか」 と静かに答えたという。浜風が通常より高い運に設定されているのは、この救助中に襲撃を受けなかった「運」が関係しているものと思われる。
 1945年1月8日、ヒ87船団(龍鳳の項を参照)の護衛のため台湾にいた浜風は、濃霧の中でタンカー「海邦丸」と衝突したが、2隻とも軽傷で済んだ。しかし、この損傷により第17駆逐隊の司令駆逐艦の座を『磯風に譲ることとなる。
 4月7日、坊ノ岬沖海戦に参加。第一次空襲で船体後部に爆弾が命中、航行不能となる。直後魚雷が右舷船体中央部に命中。艦は前後に分断され、航行不能になってから僅か3分で沈没(航行不能12:45→沈没12:48)。戦死100名、前川艦長以下256名は初霜などに助け出された。この時に『磯風』も戦没し、『谷風』も44年6月9日に戦没しているため、残る陽炎型は雪風天津風の2隻のみとなった。その天津風も数日後には自沈するのである。坊ノ岬沖海戦出撃前夜、いくつかの艦でネズミが姿を消したことが確認されているが、浜風もその一隻だった。先任将校へ先任下士官が「ネズミが艦からロープを伝って陸上へ出て行きました」と小声で報告し、先任将校は不吉な予感を感じ「誰にも言うな」と固く口止めした。結果として、この不吉な予感は当たってしまったのだった。
 彼女の慰霊碑は広島県呉市の長迫公園に、「第十七駆逐隊之碑」と並んで建っている。そこには「第二次大戦中作戦参加の最も多い栄光の駆逐艦であり、数々の輝かしい戦果をあげると共に、空母蒼龍飛鷹、信濃、戦艦武蔵金剛、駆逐艦白露等の乗員救助およびガダルカナル島の陸軍の救助等、人命救助の面でも活躍をして帝国海軍の記録を持った艦である。」と、数多くの生命を救ってきた彼女の軌跡が記されている。
 彼女の着ている制服は雪風のものと同デザインの半袖版で、それに陽炎型共通のスカートを合わせてある。ただしスカートのラインが一本だけ(陽炎のものは二本線)と細部が異なっている。

■谷風
●日産/フェアレディZ 300ZX ツインターボ 2シーター(Z32)'89

・パフォーマンスポイント(PP):489
「平成元年に生まれた、新たにクローバルスポーツカーとしての4代目Z32型」
 1989年にデビューしたZ32は、フェアレディZにとって初めての大変身だった。どちらかといえば細身で、長さを強調した3代目までとは180度の方向転換。今度は思い切り、幅と踏ん張りで勝負に出た。日本の5ナンバー枠にとらわれず、世界基準のスポーツカー黄金比を狙ったデザインだ。
 同時に操縦感覚も激変。ステアリングを切り込んだ瞬間、スパッとノーズがインを刺す。しかもワイドトレッドだけに限界も高い。ここにZは、コーナリングマシンとしての新境地を拓いた。もちろんGTとしての性能も万全。ヨーロッパのサラブレッドたちを、またもZは奈落の底に突き落としたのだった。
 その心臓は、コンパクトで重心も低いV型6気筒。FRとはいえ思い切り奥に押し込んで、前後の重量配分を50対50に近づけたフロントミッドシップ配置だ。幅広ボディと同じく世界を睨んだ結果、今後は排気量も3L一本槍。NAで230PS、ツインターボでは280PSというパワーは、20世紀最後を飾るにふさわしいパフォーマンスだった。
 足まわりも先進の設計。ペダルにショックが伝わらないABSなども、時代の常識を超えた装備だった。
 1992年には異色のコンバーチブルも追加された。主なマーケットであるカリフォルニアで熱烈に歓迎されている。
 しかしZ32は悲運のスポーツカーでもあった。折悪しく日本では景気が後退し、日産も大規模な再建計画に直面。そんな状況下でZは、ひとまず31年間の歴史に終止符を打つ。その後就任する敏腕社長、カルロス・ゴーンがZの復活を宣言するまで、3年にわたる空白の時代を迎えるのである。
 なお「フェアレディ」という呼称が使われたのは日本国内のみ。日本以外ではエンジン排気量を3ケタ化した数字が車名に用いられた。Z32型フェアレディZは日本国外では300ZXの名前で販売されていた。
 2014年04月23日の春イベント「索敵機、発艦始め!」において先行実装。同イベント唯一のドロップ限定艦だった。ドロップ場所はE-1以降の全海域ボスでのドロップが確認されていた。2014年08月08日の夏イベント「AL作戦/MI作戦」においてE1・E3・E5・E6海域でのドロップが確認されていた。2014年9月12日に実装された3-5にて、待望の通常海域でのドロップが確認された
 初期装備で爆雷、改造後は爆雷ソナーをセットで持ってくる珍しい艦。着任初期で手に入れられれば1-5攻略に役立つかもしれない。
 2014年04月23日の実装時、図鑑に誤植が複数あったが、4月28日に修正された。
 大阪の藤永田造船所にて1940年11月1日進水、1941年4月25日竣工。呉鎮守府に配属される。
艦これでは涼風のような江戸っ子キャラだが、史実の谷風は大阪生まれの呉育ちで、江戸には縁がない。逆龍驤なのだ。
 開戦時は浦風、磯風、浜風と共に第17駆逐隊として阿武隈率いる第一水雷戦隊下で真珠湾攻撃に参加。その後も空母機動部隊の護衛として南方攻略作戦に参加する。
 ミッドウェー海戦にて、谷風は南雲忠一中将の指令により最後まで戦い抜いた飛龍の乗員救助に向かった。飛龍は巻雲の介錯により沈みつつあったのだが、その後、鳳翔を発した九六艦攻が未だ浮いている飛龍の飛行甲板上に多数の人影を発見。この人影が盛んに手を振っている、という趣旨の電文を発したことにより、谷風派遣の流れとなった。完全に制空権を失い米軍機の集中攻撃に遭うことが想像される領域に突っ込むという半ば自殺まがいの危険な任務であったが、谷風艦長勝見基中佐は、1発の至近弾を除き137発もの敵弾をすべて回避するという神業を見せる。当たらなければどうということはない。だが、米軍の攻撃により到着が遅れたこともあって飛龍の船体は完全に水没しており、脱出した生存者を発見することはできなかった。なお、飛龍乗組員のうち、三〇名ほどが米軍の捕虜となっており、生きて故国の土を踏んだ彼らの口から飛龍の最後が語られることになった。敵機を四機撃墜。”ひとりミッドウェーに勝つ”ちなみに、実際の功績を考えると、四機撃墜どころではない殊勲賞だった。なぜなら、谷風が一艦で空襲を引きつけている時刻、各駆逐艦に満載状態だった四空母の傷兵を、攻略部隊主隊の戦艦群に移乗させていたのである。つまり、谷風が引き受けてくれなければ、無防備な移乗作業中を襲撃され、大惨事になっていた可能性があった。
 1942年10月の南太平洋海戦以後は主に南方での船団護衛任務に従事した。
なお、この間での輸送任務の最中に勝見中佐は戦死している。
 1943年7月クラ湾夜戦に参加。涼風と協力し米軽巡洋艦ヘレナを撃沈する戦果を挙げる。
 1944年5月28日、谷風はタウイタウイに移動。以後磯風、島風、早霜と共に対潜哨戒にあたることになる。
 1944年6月9日、谷風は哨戒中に米の最強潜水艦と名高いハーダー(Harder:SS-257)に捕捉される。ハーダーは谷風に向かい魚雷を4発発射しうち2発が命中。谷風は大爆発を起こしながら轟沈した。谷風の爆発の閃光はハーダーの視界を遮り、衝撃はハーダーの艦体を大きく揺るがしたという。ハーダーの詳細とその末路については、同じく犠牲者となった雷の項目を参照。
 「谷風」とは昼間に谷に沿って山へ吹き上げる風のこと。それに対して夜に谷に沿って山から吹き下ろす風は「山風」と言う。駆逐艦「山風」(艦これ未実装)というのはあるが、陽炎型ではなく白露型である。谷風という艦名は2代目。初代は1919年竣工、1935年除籍の江風型駆逐艦だった。なお、除籍後は「廃駆逐艦第19号」と改称されて呉軍港で浮き棧橋として使用され、解体されたのは第2次大戦後だった。2代目の方が先に亡くなったことになる。1919生まれの19号と19だらけ。とか言わないこと。
 海上自衛隊では谷風の名を受け継ぐ艦艇は今の所ないが、海上保安庁の巡視艇では2度使われている。初代はそよかぜ型巡視艇「たにかぜ」、2代目はちよかぜ型巡視艇「たにかぜ」で、どちらも退役済みである。「谷風」といえば江戸時代の力士で第4代横綱の谷風梶之助が有名。谷風の進水記念絵葉書には、艦の絵とともに横綱・谷風の絵が描かれていたものがあった。江戸っ子なのは横綱谷風から連想したキャラづけである可能性がある。横綱・谷風の絵が書かれた駆逐艦谷風の絵葉書は、船の科学館(本館はリニューアルのため閉館中だが、別館にて展示)にて見ることが出来る。なお、光人社NF文庫の「日本海軍進水絵はがき」に谷風の進水記念絵葉書が収録されているが、これは初代の方である。明石(初代)・谷風(4代)・不知火(8代・11代)・雲龍(10代)・朝潮(46代)・曙(64代)で「横綱艦隊」が組める。
 「中破絵から凄まじい犯罪臭が漂う」と一部の提督には好評である。気になる紳士諸君はぜひ手に入れて確かめてみよう。社会的に死にたくなければ、他人の目がある所では見ないこと
 「かぁー!これで勝つる!」と補給で言うが、「勝つる」は東京弁や江戸訛りに該当しない。とあるオンラインゲームに降臨した「伝説の謙虚な騎士(ナイト)」の語録が基であることは確定的に明らか。おいィ?お前それでいいのか?この語録に従えば勝つるのはメイン盾が望外に早く来てくれたからなのだが、史実ではメイン盾はどちらかと言うと谷風自身であり、しかも米軍機の猛攻によりやや遅れてしまい救助が出来なかった。やはりナイトは格が違った。
 磯風曰く「ああ見えて面倒見がいい」らしい。事実、磯風の時報では朝食で起きた惨劇を知ってか、昼食のおにぎりを用意して渡しに来ている。

■舞風
●日産/マーチ 12SR'07

・パフォーマンスポイント(PP):369
「その可愛さと性能に騙されるな、コンパクトカーのスポーツ仕様」
 くりくりした目と愛らしいスタイリング、構成的で豊富なカラーバリエーション、そして使い勝手の良さで人気を呼んだ3代目マーチ、K12型に2003年10月に追加されたスポーツモデルが、12SRである。
 普通スポーツグレードの追加といえば足まわりをわずかに締め上げてコスメティックを施して…というのがよくある手口だが、12SRはまったく違う。搭載エンジンは1.2LのCR12DE型をベースとして、専用ピストンや高回転型カムシャフト、軽量フライホイール、専用ECUやエキゾーストシステムなどの採用により、出力では約20%増しの108PS/6,900rpmと13.7kgfm/3,600rpmを発揮。またサスペンションは形式こそ変わらないが、サーキット走行にも充分対応できる専用チューンを受け、エクステリアにも上級グレードと同じエアロパーツが備えられていた。
 開発は日産系の特殊車両製作や開発を担うオーテックジャパンが担当、立派なカタログモデルとして販売されたが、まるでメーカー純正のコンプリートチューニングカーのような、どこまでもこだわりが貫かれたスポーツグレードに仕上げられている。
 2005年8月、ベースとなったマーチのマイナーチェンジと合わせて12SRもマイナーチェンジ。エアロパーツが12SR専用品となり、エンジンのポート加工が施されるとともに、エキゾーストマニフォールドがステンレスの専用品に換えられ、足まわりもしなやかな方向にセッティングしなおされた。マイナーチェンジは2007年6月にも行なわれたが、ここではグリルや内装の小変更に留まっている。
 陽炎型駆逐艦の18番艦。レア扱いだが比較的平凡な駆逐艦である。姉の初風も舞風と同じくステータスは陽炎型の平均に準じている。
 建造不可な上にドロップは3-3全般、および5-2のボス含む一部マップと、かなり限られている。ただし12月のアルペジオイベントのE-2海域全域でドロップしていたので、3-2未突破で持っている提督もいる。はず。
 「舞」風だからダンス好きという単純なキャラ付けだと思いがちだが、航行不能になって盆踊り(回避運動)を踊ることもできずに全滅した経緯がある。そう考えればダンスへのこだわりは、トラウマをねじ伏せるための彼女なりの精一杯の抵抗なのかもしれない。
 舞風とは要するに旋風(つむじかぜ)のことである。黒潮などと同じ浪速っ子。陽炎型駆逐艦の18番艦として大阪の藤永田造船所にて起工し、1941年3月15日進水、同年7月15日竣工。横須賀鎮守府に配属され、「嵐」「萩風」「野分のわき)」と共に第四駆逐隊を編成し、第二艦隊第四水雷戦隊に所属した。開戦後、南方作戦には第二小隊として萩風とコンビで行動した。第一小隊として行動していた嵐と野分はドーリットル空襲の際に米機動部隊の掃討を担当したが、会敵することはなかった。
 1942年6月、第四駆逐隊としてミッドウェー海戦に参加するも連合艦隊の大敗により第一航空戦隊の救助任務を担当した。被弾し大炎上した赤城の雷撃処分を行ったのも第四駆逐隊であった。舞風と萩風は加賀の生存者救出を担当、嵐と野分が赤城の生存者救出を担当した。
特に加賀の救出に関しては敵潜水艦ノーチラス(SS-168)による妨害が発生したため、対潜警戒も平行して行うなど困難を極めた。ミッドウェー海戦後、救助した乗組員は長門と陸奥にそれぞれ移乗し第四駆逐隊はそのままアリューシャン方面を支援するために北上した。
 1942年8月にガダルカナル島に米軍上陸の急報を受け、急遽ガダルカナル方面への進出が決定し三回の輸送任務を遂行した。8月19日、同じく輸送任務を受けていた萩風と嵐がB-17に発見され空襲を受けた。これにより萩風が被弾した為、萩風は本土回航されたあと入渠修理となり、当面の作戦には萩風を除く三隻で参加することになる。
 その後、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加、機動部隊本隊とともに行動した。海戦後、被弾した翔鶴の護衛を担当し横須賀まで帰港する。
 1943年、磯風、浜風と共にラエからラバウルに輸送する貨物船を護衛中に米潜水艦アルゴノート(SS-166)に発見されてしまう。しかし、船団上空を哨戒していたラバウルの第582航空隊機が対潜攻撃を行い、舞風も追撃。しばらくしてアルゴノートが浮上してくると全艦で包囲した後、582空も加わり集中攻撃が行われアルゴノートはそのまま轟沈し、ピアース艦長以下105名がその場で戦死した。対潜値上限がネームシップの陽炎より高いのはこの一件の影響かもしれない。
 1943年2月4日、ガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)に参加。第二次作戦中、ショートランド島南方にて米軍機約30機に発見され空襲を受ける。これにより艦首損傷、航行不能となり同作戦に参加していた長月に曳航され一旦ショートランドに回航、その後は姉妹艦の雪風に曳航され横須賀で修理を受けた。舞風は修理後、第四駆逐隊として再び内地やトラック、上海などを巡り輸送と護衛任務に従事するために南方方面へ移動した。一方で、ベラ湾にて発生した夜戦に参加した萩風と嵐は同海戦にて米海軍の前に完敗していた。そして再び舞風と再会することはなく、その海戦にて戦没した。ベラ湾夜戦の後、第四駆逐隊に朝潮型の6番艦である山雲が配属された。1943年12月、舞風は第三戦隊を護衛し佐世保まで回航する。1944年1月3日、ロレンゴウ方面の輸送任務に従事。その後は僚艦の野分と合流しトラック周辺で船団護衛を行う。
 舞風の最期(かなりショッキングな内容なので注意)1944年2月17日、僚艦の野分と練習巡洋艦の香取、特設巡洋艦の赤城丸からなる第4215船団を編成し、民間人を乗せてトラック諸島を出港。直後に第58任務部隊所属の米空母イントレピッドの航空隊に発見され空襲を受けるも、これを無事やり過ごす。しかし米空母バンカーヒル、米空母ヨークタウン(CV-10)、そして米空母エンタープライズから発艦した攻撃隊の攻撃により被弾し舞風と香取は航行不能、赤城丸は空襲の最中沈没。以降も断続的に空襲を受け続けていた。轟沈台詞で野分の名を出すのは、この時に舞風座乗の第四駆逐隊磯久研磨大佐以下の司令部の移乗を試みようとしたことから。ただし敵の空襲が激しく、移乗は叶わなかった。空襲の後、米海軍第50任務部隊より分派された艦隊(戦艦アイオワ、戦艦ニュージャージー、重巡ミネアポリス、重巡ニューオーリンズ、駆逐艦バーンズ、駆逐艦ブラッドフォード、駆逐艦シャレット、駆逐艦イザード、計8隻)に捕捉されてしまう。残された舞風と香取は身動きがとれないまま、アイオワの主砲斉射を皮切りに次々と米艦隊の集中砲火を受け、舞風は船体が切断され、黒煙を上げながら香取と共にトラック島沖に沈んでいった。米軍戦闘機2機は舞風・香取の生存者の乗るボートに対しても機銃掃射を行ったため、両艦艇の乗組員の生存者は一人も居なかった。舞風と香取は航行不能にはなっていたが乗員の士気は最後まで高く「沈む寸前まで主砲による反撃を行っていた」と米軍により記録されている。そして舞風の最後の瞬間は米軍により撮影されており、トラック島空襲(米軍の作戦名"Operation Hailstone")関連の動画の中に収められていると思われる。舞風の最後を映した映像のコマ舞風の艦歴はその殆どが輸送・護衛任務であった。海戦に参加しても護衛任務が殆どで、時には被弾した艦の生存者の救助など、決して華々しい艦歴ではない。そして艦歴の最後は空襲により航行不能になったところを戦艦群に捕捉され徹底的に撃ち込まれ、船体が切断して轟沈。そして生存者は機銃掃射で全滅。鎮守府でいつも明るい舞風の笑顔の裏には、こんな過去が隠されている。なお、舞風に別れを告げた野分は、米戦艦群からの凄まじい16インチ砲射撃の雨をかいくぐってほぼ無傷で離脱に成功している。いずれ舞風と笑顔で再会できる日が来ることを願おう。愛知県額田郡幸田町、三ヶ根山にトラック諸島における海域戦没者慰霊碑が建てられており、舞風の戦没者も祀られている。高知県高知市神田にも磯久研磨大佐の墓がある。
 オーテックジャパンが作った1200ccクラスのコンパクトカーをチューニングしたマシン。グランツーリスモには2代目と3代目(12c 3ドア・マイクラ)とこの3代目12SRが収録。未だに収録されてない初代と4代目の登場に期待したい。
 舞風が持つマーチ12SRは、黄色で塗装され、雷のフィットRSに続くような操作性を得ている。小型車の特性となる"小回り"を駆使して、一気に攻め込め!!

■秋雲
●スバル/レガシィ B4 RSK'98

・パフォーマンスポイント(PP):463
「そのデザインで日本や欧州から人気スバル車に、頼れる警察の相棒」
 1998年6月、日本を代表するワゴンとなったレガシィは、3代目へと進化した。セダンはB4という新しいネーミングが与えられ、半年後の12月にデビューしている。
 3代目レガシィは、2代目に対してさらにホイールベースが20mm伸ばされ、2,650mmとなった。とはいえ全幅方向の拡大はなく、5ナンバー枠は守られた。足まわりではリアサスペンションがストラットからマルチリンクに変更され、走りの質感が向上している。FFモデルが完全に姿を消し、すべてが4WDモデルとなったことも注目点だ。
 販売当初設定されたエンジンはワゴンに5つ、B4に2つ。2Lターボは新たに斜流タービンを採用し、トルクアップとともに燃費が向上した。モデル途中から3Lの6気筒エンジンも追加されている。
 3代目レガシィでも、主役がGT-Bだったことに変わりはない。今回はより走りの性能を高めた「GT-BE-tune」というグレードが人気で、途中から標準のGT-Bは消滅することとなる。
 いっぽう3代目のレガシィではセダンも独自のキャラクターをアピールした。B4としてスポーツ志向のユーザーにターゲットを絞った戦略は成功し、セダンとしては異例のヒットを勝ちとった。エンジンはRSKが2Lターボ、RSが2L NAというシンプルな構成だったが、途中で2.5L NAと3L NAの6気筒モデルが追加されている。
 内外装でポルシェデザインとコラボレートした限定モデル「ブリッツェン」も、3代目のトピックだ。2000年モデルではB4のみに作られたが、好評だったため翌年にはワゴンボディも設定され、2002年には6気筒仕様まで登場している。
 2013年9月18日のメンテにおいて、夕雲とともに実装された比較的新しい駆逐艦娘で、陽炎型の末っ子である。
 ネームシップの陽炎に比べて回避・運の初期値が高め、対空の初期値が低めである。
 建造は不可能なので、入手手段はドロップのみ。ドロップ地帯は5-1ボス、5-2全域、5-3ボス、5-4ボス。全マスでチャンスがある5-2が探しやすいだろう。
 浦賀船渠で1941年4月11日に進水、同年9月27日に竣工。横須賀鎮守府に配属された。
 就役とともに第五航空戦隊(五航戦、司令官:原忠一少将)に配属され、とともに翔鶴瑞鶴の護衛を行った。開戦を前に一航戦・二航戦・五航戦・一水戦などで第一航空艦隊(一航艦、司令長官:南雲忠一中将)が編成された。真珠湾攻撃では、一・二・五航戦所属の駆逐艦が航続力不足のため参加しない中、秋雲のみ長い航続力を買われて参戦した。
 本人が「描き残したかったな」と言っている他、随所で薄い本イラストの話をするのは、南太平洋海戦の後のエピソードが由来である。日本の艦載機の攻撃により米空母「ホーネット」は大破炎上。米軍は雷撃処分しようとしたが沈まず、そこに秋雲と巻雲がやって来たため離脱した。秋雲たちは連合艦隊司令部から「ホーネットを曳航せよ」と指示を受けていたが、駆逐艦2隻で空母を曳航なんて無理ゲーだし、大炎上中で近寄れないし、既に浸水して沈みかけていたしで曳航は断念し、巻雲が雷撃を行った。せめて沈没の様子を記録に残そうと秋雲艦長の相馬正平中佐は写真撮影を命じたが、航海長に「夜だから写真は無理」と言われ、かわりに絵の上手い信号員の中島斎氏にスケッチさせたのである。「夜は暗くて絵が描きにくいよねー」要約と中島氏が言うと、艦長は敵の潜水艦がそこらへんにいるかもしれないのに探照灯の照射を命令しホーネットを照らした。無論、スケッチのことを知らない他の乗員や僚艦は相当ビビったらしい。隣からは何してんだと焦る巻雲の発光信号が飛んできたという。巻雲「こんな時に探照灯つけるなんて秋雲のばかぁ」幸運にも敵に発見されず、探照灯の力を借りてスケッチを完成させた秋雲は、ホーネットの最期を見届けた。このエピソードが彼女の運の高さの由来と思われる。早割、表紙だけ先に入稿など薄い本絡みで身に覚えのある提督諸兄も多いのではなかろうか。ここを見ている作家さん進捗どうですか
 本人も言っている通り、陽炎型なのか夕雲型なのか今一判然としていなかったことからかつて「等級論争」があった。ミッドウェー以降は夕雲巻雲・風雲(未実装)と共に第十駆逐隊を編成。尚、お仲間は全員が真っ当な夕雲型、つまりこの子ぼっちだったのである。損耗による寄せ集めの場合を除くと、型の異なる駆逐艦の混成による駆逐隊は珍しい。海軍省が作成した艦艇類別等級別表では就役から戦没まで陽炎型陽炎が戦没してからは不知火型に分類されており、夕雲型に分類されたことは無い。本来は「秋雲型」の1番艦となる予定だったが、対米関係の悪化から1隻でも多くの新造駆逐艦を欲した海軍の要請により陽炎型の図面を使って建造された。マル4計画上の仮称艦名も秋雲が第115号艦、夕雲が第116号艦で秋雲の方が先である。実は、計画時の第115号艦の予定艦名は「島風」だったのだが、この名前を丙型駆逐艦が持って行ってしまったために、本来第116号艦に命名される筈だった「秋雲」が繰り上がったという経緯がある。昭和19年の対空兵装強化の訓令工事でも、秋雲は第二砲塔を撤去してその跡地に25mm三連装機銃を2基据える陽炎型と同じ工事を行っている。夕雲型は主砲の砲架が対空兼用のD型であるため、この工事は行っていない。終戦直後に作られた資料では夕雲型二番艦とされており、近年までそのように扱われていた。乗員の意識としても夕雲型に分類されると考えていたようで、当時の乗員が後年に編集した著書の中では夕雲型扱いになっている。秋雲本人の意識はこちらに近い模様で、服も夕雲準拠のものを着ている。最近の艦艇研究家による調査で、海軍の内令や工廠の図面等に「陽炎型秋雲」の記述があることが発見されている。また、艦橋の形状や設計図の艦体全長が陽炎型と一致しているという調査結果が出ている。混乱した原因として、夕雲型は陽炎型の改良型で良く似ていた事、陽炎型と夕雲型両方の建造予定があったマル四計画で建造された事、○雲と言う艦名が紛らわしかった事などが挙げられるが、いずれも憶測の域を出ない。なお、当時の認識にしてからが随分と混乱しており、造船官と建造担当者と乗組員の全員で言っていることが違うしかも設計図はその三者のいずれとも食い違うという頭の痛い状況である。ぶっちゃけ、陽炎型でも夕雲型でもない秋雲型同型艦なしだった、という可能性も大いに残っていたりするのだ。どちらに分類されるにせよ「秋雲」という艦がそこにいたことは変わらないので、本人も等級分類はどうでも良さそうな態度を取っている。
 1944年4月11日、米潜水艦「レッドフィン」の魚雷攻撃により秋雲は沈没した。乗員のうち入戸野艦長以下133名が戦死し、准士官以上8名と下士官兵108名の計116名が生還した。
 海上自衛隊の護衛艦にも名は受け継がれており、1973年にやまぐも型5番艦「あきぐも(DD-120/TV-3504)」として進水した。2005年、無事に任務を終え除籍。
 掲示板等での愛称は「コロンビア」。もう一人コロンビアさんがいるため2号と呼ばれる場合もある。その何とも言いがたい表情から雑コラの素材として絵心のある提督達にも大人気だったりする。
 昼0時の時報の「ウキウキWatching」は、2014年3月まで平日昼0時台に放送されていたバラエティ番組「笑っていいとも!のオープニングテーマ。
 午後6時・7時の時報の「牛缶」とは、牛肉の大和煮の缶詰のこと。『白飯に大和煮』の組み合わせは、艦これ運営に関わっているサークル「C2機関」の缶詰本で赤城さん大和煮さんも大絶賛。
 開発主管は桂田勝。開発コンセプトは「レガシィを極める」。1998年6月に登場。このモデルチェンジでFF車が廃止され、全グレードが4WDとなった。全幅を1,695mmとし、先代に引き続き5ナンバーサイズを死守している。セダンはワゴンに半年遅れて発売され、新たに「B4」のブランド名が与えられた。B4はスポーティグレードのみRSK、RSの設定とするなど、ツーリングワゴンとの差別化が計られ、その後スポーツセダンマーケットの代表車種として認識されるにまで成長して4代目以降に引き継がれている。 19981999RJCニューカー・オブ・ザ・イヤー登録車受賞ツーリングワゴン・ランカスター。
 ボディデザインはレガシィらしさを備えつつより重厚で骨太なものとなり、ヘッドランプは上下2灯タイプを採用、上級グレードにはHIDランプが初採用された。内装の品質もそれまでのスバル車から格段に向上し、アメリカのハイエンド・オーディオブランドであるマッキントッシュ製オーディオがメーカー装着オプションで設定されるなど、走行性能以外の品質向上が図られた。また、トヨタGOAに代表される高い衝突安全性能が販売戦略上重要視される時代に登場した本モデル新環状力骨構造の採用だが、自動車事故対策センター現在の独立行政法人自動車事故対策機構が1998年と1999年にテストした衝突安全性能試験では格上のクラウン1999年モデルなど、3.0L級高級車両を凌ぐAAAの成績を運転席、助手席共に獲得した。なお、モデル途中からツーリングワゴンのルーフレールは埋め込み式になった。
 BD/BG型に引き続き、EJ20型エンジンおよびEJ25型エンジンを搭載し、先代まで搭載されていた1.8LのEJ18型エンジンは搭載されていない。ターボモデルは先代に引き続き「2ステージツインターボ」を採用。また、ランカスター先代のグランドワゴンから改名用に3.0LのEZ30型エンジンが採用された。その後EZ30型はB4とワゴンにも搭載された。EZ30型を搭載したB4の「RS30」は富士重工としては初の「大排気量セダン」となったEZ30型は、アルシオーネSVXの3.3LエンジンであるEG33エンジンがベースではなく、前後長がより短い新設計であり、このエンジンを積む前提でボディのエンジンルームが広く設計されていた。スバル1300G以来の、幅の狭いクランクシャフトベアリングが使用されている。
 秋雲が持つ3代目レガシィB4は、Mustard Micaで塗装されたもので、高速スタビリティは目を見張るものだが、低速域は…。ウェットコースで威力を発揮するのは彼女らしい実力だ。

■夕雲
●スバル/レガシィ B4 3.0R'03

・パフォーマンスポイント(PP):436
「大人のためにポルシェと共同開発した4代目レガシィB4」
(車両解説は重巡洋艦の「鳥海」と変わらないため、省略)
 2013年9月18日のメンテにおいて、秋雲とともに実装された新しい駆逐艦艦娘、夕雲型のネームシップである。2013年10月16日に、妹の巻雲長波が実装された。2014年8月8日に始まった夏イベントで、妹の早霜清霜が先行実装。
 ドロップは2014年5月23日時点で、2-5・4-2・5-1・5-2・5-3・5-4の各ボスで報告されている。新たに実装された2-5での出現が確認されたことで、入手できる時期はかなり早くなった。
 量産された艦隊戦用駆逐艦としては最終モデルであることもあり、夕雲型は全能力が他の駆逐艦より若干高い。回避は雪風島風に次ぐ高さ、対潜に至っては国産駆逐艦内で上位に入る事など、基本的に初期値が高い。陽炎と比較すると最終値でも耐久と装甲のみ同値で他の能力は若干上回る。対潜以外は誤差程度ではあるが。昨今はイベントで駆逐艦が多数必要になることが多いので、特に拘りが無い人にはぷち強い分おすすめ。
 同時実装の秋雲に比べ運が低めであるが、駆逐艦の中では標準かもしくはちょっと上。
 改造レベルが地味に高いので注意。だが改造すると22号対水上電探を持ってきてくれる。
 『漸減邀撃作戦』を想定した雷撃戦主体の量産型駆逐艦としては最後のモデル。陽炎型の改良版。船体が延長され、艦尾喫水下の形状を変更。これにより艦によって不安定だった速力が安定するようになった。この辺は回避値としてステータスにも反映されている。主砲は仰角75度・対空信管調停装置付きのD型砲塔に、測距儀は高角対応化、2式距離苗頭盤装備となり、対空性能が向上。朝潮型で試験的に導入され良好だった「艦内電源の交流化」を本格採用。狭隘だった艦橋が拡張され、空気抵抗減少を狙って流線型化された。
 しかし基本的には陽炎型とほとんど同じである。見分け方としては僅かに夕雲型のほうが全長が長く、艦橋の形状が傾斜している。建造時期も陽炎型の後期生産タイプと被っており、戦時のゴタゴタで当時の人たちも陽炎型なのか夕雲型なのか認識が混乱するようなこともあった。
 夕雲型は、陽炎型と同じく駆逐艦の『主力オブ主力』として次々と最前線に送られる。ネームシップである夕雲も例外ではない。1942年4月、秋雲巻雲、風雲(夕雲型3番艦、未実装)と第10駆逐隊を結成。風雲の実装はよミッドウェーやケ号作戦、そしてあのキスカ島撤退作戦に参加している。
 ただ最前線の過酷な任務に耐えられず、夕雲型はその全てが戦没している。夕雲もソロモン諸島ベララベラ島からの撤退作戦(第二次ベララベラ海戦)の際、米軍の集中砲火を受けて炎上しながらも奮戦、駆逐艦と刺し違えて撃沈された。この時は夜戦で、秋雲(旗艦)、磯風、風雲、夕雲の順に単縦陣で航行しており、米軍の駆逐艦三隻(セルフリッジ、シェヴァリエ、オバノン)からなる戦隊を先んじて発見していたのだが、指揮官の伊集院大佐は敵の識別を慎重に行ったため、米艦に機先を制されてしまった。米艦の発砲を見た夕雲は戦隊内で最も早く射撃を開始したが、発砲炎で位置を特定され、集中砲火を受ける結果となってしまった。夕雲が発射した魚雷は敵の二番艦「シャヴァリア」に命中し、その行き足が鈍ったところに後続していた「オバノン」が突っ込んで艦首大破。オバノンはシャヴァリアの救助作業に忙殺されるようになり、敵は実質セルフリッジ一隻のみとなった。しかし、米艦が先んじて発射していた魚雷が夕雲に命中。敵の砲撃により炎上中だった夕雲は、これで止めを刺されてしまった。図らずも夕雲に被害が集中したため、他の三艦はほとんど攻撃を受けずに済み、敵の撃退に成功した。この隙に、別働の撤収部隊がベララベラ島に到着し、救援を待っていた陸海軍部隊の収容に成功している。
 海上自衛隊の護衛艦にも名は受け継がれており、1977年にやまぐも型6番艦「ゆうぐも(DD-121)」として進水した。2005年、無事に任務を終え除籍。
 なお、昨今では某ロリお艦に次ぐ「ダメ男製造機」候補に挙げられてしまった……。
 夕雲型のネームシップながらあまり写真が残っていない。この辺り陽炎型ネームシップに通ずるものがある。

■巻雲
●スバル/インプレッサ スポーツワゴン STi(Type-Ⅰ)'00

・パフォーマンスポイント(PP):488
「丸目インプの概念を打ち破った異例のワゴン版STi仕様」
(車両解説は戦艦の「霧島」と変わらないため、省略)
 2013年10月16日メンテナンスで長波と同時に実装されためがねっ娘の艦娘。初の「甘えんぼ袖」艦娘でもあり、本人曰く「服のサイズが大きい」とのこと。だが公式4コマ第30話の描写から「姉妹より背というか体全体、身の丈が小さいのでは?」等の異説が浮上中。
 入手手段はドロップのみ。実装直後は1-4、2-3、4-3、5-2の各ボスのみドロップだった。その後ドロップ箇所は増えている様だが、もし彼女を探すなら1-4か2-3、または5-4の周回が適切と思われる。
 夕雲型駆逐艦の2番艦。運の値が1小さいことを除き、性能はと大差ない。改造後はどちらの艦も運12。同じ値になる。
 改造可能レベルが高いが、巻雲改はそれに見合うメリットを持つ。幸運にも1-4、2-3でお迎えした新米提督は3-2や対潜に備え、鍛えておくことをお勧めする。まず、貴重なホロ装備の三式水中探信儀を持ってきてくれる。そして初期値が高く、同じ改駆逐艦勢で考えると、回避が雪風島風に次ぐ高さであり、対潜に至っては国産駆逐艦トップである。最終値で比較してもその優位性は揺るがず、彼女に勝てる駆逐艦はこれくらい。
 名前は「恰(アタカ)モ巻ケルガ如(ゴト)キ雲」を意味する。意外に思われるだろうが何のヒネリもない。見た目以外は。気象用語としては、音読みで「けんうん」という。
 駆逐艦建造で有名な、大阪の藤永田造船所で建造された。同じ造船所で建造された仲間は、黒潮、そしてなど多数。巻雲がはわわわわ言っているのは、先輩の影響なのかも知れない。
 「夕雲」「秋雲」「風雲未実装」とともに第一〇駆逐隊に所属していた。
 初陣はあのミッドウェー海戦。当初は専ら蒼龍の傍らにあり、救助および消火作業に当たっていた。この時、巻雲の艦長である藤田中佐は、蒼龍の艦長である柳本大佐を退艦させようと、救助隊を編成して炎上する蒼龍に送り込んだという。その後、浜風と磯風が交代してくれたため、飛龍を追跡する長良に追随すべく蒼龍の側を離れた。また巻雲は最後まで戦った飛龍の雷撃処分を行っている。「処分雷撃より云々」はこれが元ネタ。駆逐艦乗りにとって日々丹精込めて磨き上げた必殺の魚雷は、やはり敵を撃ってナンボなのである。巻雲はこの時、三名の米軍捕虜を取っている。尋問の後、二人に石油缶を足に括りつけ海に飛び込ませた。もう一人は、巻雲艦内の浴場にて蒸し殺した後、死体は海に放り投げた。復讐心にかられた人々ほど恐ろしいものは無い。
 その後、南太平洋海戦に参加。巻雲と秋雲は「事情許さば拿捕曳航されたし」と、大破した米空母ホーネットの追跡を命じられる。ホーネットに追いついた巻雲達は曳航こそ諦めたが、自慢の魚雷でホーネットに止めを刺した。ホーネットの排水量は巻雲のざっと10倍。駆逐艦2隻で曳航できるかどうかはギリギリだ。またそれ以前に、大炎上中のホーネットへの接近は不可能だった。これに綱つけて引っ張って来い無理ゲー以外の何物でもない。この時は既に夜だったのだが、敵の潜水艦に見つかるかも知れんのに、突如秋雲が探照灯を照射。ビビった巻雲は「お前どうした?!」と秋雲に発光信号で問い質した。詳しくは秋雲の項を参照。巻雲の台詞を聞く限り、秋雲は今日も元気に探照灯を照射している模様。マジで勘弁してくれ。敵味方問わずとはいえ、巻雲は隻の空母を雷撃で沈めたという、世界戦史でも稀有な駆逐艦である。
 ガダルカナル島撤退作戦ケ号作戦に従事した際機雷に接触、航行不能に。夕雲が曳航したが浸水と損傷がひどくなったので断念。夕雲に生存者を移乗させたあと雷撃処分された。同作戦唯一の沈没艦であった。
 実は「巻雲」の名を持つ艦としては2代目。日露戦争時に旅順港で分捕ったロシアの水雷巡洋艦「フサードニク」を改装した「巻雲」敷波型駆逐艦2番艦が初代である。1965年には3代目となる「まきぐもDD-114/TV-3507」やまぐも型護衛艦2番艦が進水。1995年、無事に任務を終え除籍。一方で1976年、海上保安庁第四管区の鳥羽海上保安部に「巡視艇まきぐもPC76」が就役している。長きに渡って鳥羽で任務に就いていたが、2014年3月11日に無事解役を迎えた。就役からの総航走距離は440847キロメートル。実に地球11周に相当する距離を、伊勢湾の平穏を守るべく駆け巡ったのである。

■長波
●スバル/インプレッサ スポーツワゴン WRX STi バージョンⅥ'99

・パフォーマンスポイント(PP):493
「GC8型最後のSTI仕様のスポーツワゴン」
 1998年3月、インプレッサ WRX クーペのSTi バージョンⅣをベースにしたスペシャルモデルが発表された。22B-STi バージョンと呼ばれるこのモデルは名前からもわかるように、2.2Lのフラット4ターボを搭載。280PS/37.0kgfmというスペックが与えられた。
 このモデルの魅力は何といってもスタイリングだ。WRカーそっくりのブリスターフェンダーが備わり、そのルックスは完璧なWRカーだったのである。このモデルは400台の受注限定生産車で、500万円という破格のプライスが付けられていたが、数日のうちに完売してファン憧れの1台となった。
 22B-STiと並行して通常のWRXシリーズも改良を受け、98年9月にはSTi バージョンがⅤとなる。このⅤではエクステリアに新デザインのエアロパーツが与えられた他、スポーツABSを新採用するなど細かな変更、改良が行われたものの、280PS/36.0kgfmというスペックに変わりはなかった。この事実は、現行シャシーにおける進化がそろそろ限界に達していることを物語るものだった。
 そして99年9月には、GC型最後のSTiであるバージョンⅥが登場する。エクステリアではフロンドアンダースポイラーの採用をはじめ、翼断面形状を変更したリアスポイラーが与えられた他、16インチのアルミホイールも新デザインとなった。競技仕様のRAには砲弾型ドアミラーも設定、クーペは軽量化のためリアクオーターガラスが薄板化された。
 このバージョンⅥを最後に、インプレッサは2代目のモデルであるGD型にバトンを渡すことになる。インプレッサは実に約8年もの間、基本ボディを変えずに進化し続けてきたのである。
 2013年10月16日メンテナンスで巻雲と同時に実装された艦娘。
 武勲艦として名を立てた艦のためか、運の値が高めである。
 以前は3-2,4-4,5-1,5-3各ボスからのドロップしか判明されておらず入手は困難だったが、2014年2月26日のアップデートで追加された5-4でもドロップ可能に。道中・ボス戦の両方で出ること、さらに5-4自体周回が比較的容易なマップであるため入手難易度は大幅に下がったと言える。2013年11月のイベント「決戦鉄底海峡」、同年クリスマスからのイベント「アルペジオとのコラボイベントマップ」でも出現した。
 夕雲型の4番艦であり、同型艦は艦これ実装分ではネームシップの夕雲を始め2番艦の巻雲、17番艦の早霜と19番艦(最終艦)の清霜が存在している。
 改造可能Lvが高いが、貴重なホロ装備三式水中探信儀を持ってきてくれる。
 本人がいうマル4計画での仮称は第119号艦。ただし回転灯はついてない。なお第110号は元世界最大の空母(アレの妹)である。
 大阪・藤永田造船所で1942年(昭和17年)3月5日進水、同年6月30日竣工。横須賀鎮守府籍となる。夕雲型の巻波・高波(どちらも艦これ未実装)により第三一駆逐隊を編成し、第二艦隊第二水雷戦隊(二水戦)に所属した。
 長波といえばルンガ沖夜戦が有名。田中頼三司令官座乗の第二水雷戦隊旗艦として、戦隊合わせて米重巡1隻撃沈3隻大破、戦隊の損失は高波のみという圧勝を得た。台詞で「長波に続け」と言っているが、夜戦当時は隊列の中央にいた。米海軍から攻撃を受け高波が被弾する中、部隊の態勢を立て直しヒットアンドアウェイのような形で魚雷を放った後退避したのだが、これらの行動が上層部や僚艦から後で白い目で見られる事に。原因の一つとして、田中少将は高波の救援を黒潮らに命じて戦闘海域に再突入させ、自身は後退してしまったことがある。魚雷を撃ち尽くして丸腰同然だった黒潮らは敵巡洋艦から追い回され、救助を打ち切る羽目に。そのため現場からの非難も凄かった。
ただし、本来乗員の救助は旗艦でなく僚艦が行うのが通例であり、だからこそ旗艦自ら救助を行った木村
少将の行動が映えたという一面もあることを付け加えておく。また、長波と高波は警戒艦としてドラム缶を搭載せず、予備魚雷を持っていながら丸腰の僚艦に救助を向かわせたという非難もあるが、厳密には長波が予備魚雷を積んでいたかは不明。というも高波の江田航海長の証言によると警戒艦である高波も予備魚雷を下ろしており、また第三十一駆逐隊が輸送作戦前に予備魚雷を陸揚げしたという記録もある(ただし二水戦旗艦という役割を兼ねていた長波が第三十一駆逐隊として魚雷を下ろしていたとも断定できない)。そもそもの作戦は輸送任務であって戦闘ではなかった。戦闘には勝利したものの、肝心な輸送任務には失敗している。とはいえ米艦隊に発見され攻撃を受ける寸前であり、機関停止している場合ではなかった。しかも米軍側は日本軍の輸送作戦を予測して重巡4隻含む10隻以上の艦隊で待ち構えていたのである。台詞で「ドラム缶」を連呼してるが、これは浮くように中に食料とかを半分つめたドラム缶(輸送用)。これを予備魚雷を下ろしてまで艦上に240個位(数十トン)積んで、ガダルカナルの沖合いにロープで数珠繋ぎにして投げ入れて陸上から引き揚げる計画だった。しかし数珠繋ぎにしすぎて重くなり、飢餓状態の陸軍さんにそんなものを引き揚げる力はなく、4回やって2回投入に成功しているが結局翌朝アメさんに機銃掃射で大半が沈められてしまって失敗した。ついでにいうと長波はルンガ沖夜戦ではそのドラム缶を積んでなかった(旗艦だったので)。当時の日本側は酷評し、一方アメリカ側はベタ褒めと、田中少将と長波の行動に対する評価は日米で180度異なる。このまるで異なる2つの評価が、彼女の表裏で異なる独特の髪の色という形で現れている…のかもしれない。
 ルンガ沖夜戦に先立つヘンダーソン基地砲撃でも活躍していて、金剛と榛名がファイヤー!してる最中に、群がってきた魚雷艇を蹴散らしてたりする。
 ルンガ沖夜戦後はキスカ島撤退作戦に参加した。濃霧のために初霜と衝突したものの損傷は軽微で作戦に支障なく、奇跡の作戦成功に貢献した。
 ラバウルにて爆撃を受け艦尾損傷、航行不能になる。水無月(未実装)によってトラックまで曳航され、トラックからは同じく爆撃にて魚雷頭部が誘爆し、多数の死傷者を出していた長良によって日本まで曳航された。この2週間後、僚艦であった巻波・大波(共に未実装)がセント・ジョージ岬沖海戦で沈没し、第三一駆逐隊は新たに3隻が編入する2ヶ月半の間、長波ひとりぼっちになってしまった。
 捷一号作戦(レイテ沖海戦)では、愛宕を撃沈した米潜水艦ダーター(Darter:SS-227)が座礁しているのを発見し、砲撃後に艦内に乗り込み、機銃や写真などの鹵獲品を得ている。
 レイテへの輸送作戦「多号作戦」で島風率いる輸送隊に合同したが、1944年11月11日、敵機347機の熾烈な空襲をわずか5隻の駆逐艦で迎撃し、島風らとともに沈没。船団は駆逐艦朝霜(未実装)を残し壊滅した。長波は弾薬0になるまで奮闘している。生存者は放棄漂流していた浜波に一時避難の上、最終的にはレイテ島へ上陸した。
 キスカ島撤退戦、トラックまでの重巡護衛、多号作戦と、二水戦内でも駆逐隊を組めずたらいまわしにされた島風となんと3回も作戦行動を共にした。その事が時報での仲良し発言に繋がっていると思われる。良かったね島風。
 子日のこともよく話しているが、子日は長波の竣工から僅か5日後に戦没しているため、実は面識がない。
 よく「何とも不思議な髪色」と形容されるが、髪の内側と外側で色が違う髪型は実在する。“かりあげクン”の刈り上げ部分と髪の部分で別々の色に染め、上の髪がかぶされば内/外で別々の色に見える仕組み(地毛が黒なら刈り上げ部分だけピンクに染めれば長波の髪色になる)。髪を結ぶと下の色が見え髪型がガラリと変わった様に見えたりする。また、風や頭を動かした時に色の違いにより髪の動きがより強調されるので、バンド系やダンサーなどに好まれたりもする髪型である(有名所では木村カエラがこの髪型にした事がある)。後に実装された末の妹の清霜も、同じように内側と外側で色が違う髪型をしている。

■朝霜
●/

・パフォーマンスポイント(PP):
「」
※キャラの詳細が判明次第、マシンの公開と共に記載します。

■早霜
●ホンダ/アコード クーペ EX'03

・パフォーマンスポイント(PP):450
「日本ではインスパイア、北米ではアコードクーペ。クーペの王道を行く4代目」
 アコード クーペが4代目へと進化したのは2001年のこと。この4代目は日本では市販されない北米専用モデルとなった。
 日本ではインスパイアとして販売されている北米版アコード セダンがベースのため、そのボディサイズも立派なもの。全長4,765mm、全幅1,816mm、全高1,415mmというから、日本製アコード セダンよりも完全にワンランク上に属するモデルである。
 このアコード クーペが搭載するエンジンは、日本製アコードと同じ160PSの2.4Lと、240PSの3L V6という2種類。最もスポーティなEXというグレードでは、このV6エンジンに6速MTが組み合わせられる点がポイントだ。
 3L V6はSOHCにもかかわらず、そのフィーリングは非常にスポーティ。6速MTとのマッチングも絶妙だ。大排気量FFなのに粗野な部分がまったくなく、ホンダらしいスムーズなドライブトレインの味わいを存分に堪能できる。もちろん6速MT自体の質感が高く、気持ち良いシフトフィールを可能にしていることもその一因だ。
 EXというモデルはインテリアでもスポーツ性を強調している。3本スポークのステアリングを採用する他、ダッシュパネルはカーボン調。細かな点では、6速MTのシフトノブがS2000と共通ということも面白い。S2000は他のモデルにパーツを共用させていないだけに、これは極めて例外的なことだ。
 とはいえ、乗り味はハードなものではない。必要な情報はしっかりと伝えるが、全体として印象に残るのはアメリカ仕様らしいマイルドな感触だ。優雅なハイウェイクルージングにふさわしい、クーペの王道のような1台である。
 2014年8月8日開始の夏イベントにて先行実装。現在はイベント終了のため、入手方法は無い。
 もう一隻のドロップ艦清霜とは違い、改造後に持ってくるのは九四式爆雷投射機。残念ながら三式牧場はできない
 なんとも微妙な運は「救助に来た艦が次々と沈むところを見せられる」と「沈没を確認されていない」を差し引きしたものか。
 2014年9月12日現在、春雨清霜と共に改造後に中破させた場合には、中破グラフィックが図鑑に登録されないため、登録させたい場合には必ず改造前に中破させる必要がある。
 「早霜」とは、朝早く降りる霜、もしくは秋早く降りる霜のこと。
 1942年度マル急計画仮称第345号艦として舞鶴海軍工廠で1943年1月20日に起工、1944年2月20日に竣工。第十一水雷戦隊で乗員の訓練を受け、5月10日にタウイタウイに向け出航。この時期にはもはや駆逐艦へも十分な訓練を施すだけの油がなく、わずか3ヶ月弱という凄まじい詰め込み訓練だった。1944年2月当時は、第十一水雷戦隊は龍田が旗艦を務めを除く第六駆逐も所属していたが、早霜所属から間もない間に龍田・雷・電が立て続けに戦没してしまった。
 タウイタウイでは飛鷹隼鷹龍鳳らの警戒艦となる。いまだ技量未熟ながら、いきなり基地周辺の対潜掃討などに投入されている。実戦をそのまま訓練としていたのである。
 6月19日のマリアナ沖海戦では乙部隊に合流し作戦に参加。初陣ながら2機を立て続けに撃墜している。そして大火災を起こし総員退艦命令が出された飛鷹の乗員たちを救助した。
 その後呉に戻り、20ミリ単装機銃や25mm連装機銃などの対空兵装を大幅追加。7月1日に第五戦隊を護衛しリンガ泊地に到着。
 8月15日、秋霜(未実装)、清霜とともに第二駆逐隊を編成し、第二艦隊・第二水雷戦隊に編入された。
 10月24日からのレイテ沖海戦に栗田艦隊に属して参加。それに先立つ21日、士官を集めての最終打ち合わせの際、航海長が「必勝を期して乾杯しましょう」と提案し、とっておきのシャンパンを持ちだした。ところが栓を開ける際、誤って瓶を落とし割ってしまった。全員顔をしかめ、内心先行きの不吉さを感じたという。
 そして25日、サマール沖海戦参加中に至近弾を浴びて損傷。転輪羅針儀が破壊され、舷側に無数の破孔が空き、しかも燃料タンクに海水が流れ込んでしまった。燃料と海水を分離するためには、ドラム缶に燃料を汲み取った上で揺らさないよう12ノットの低速で走りつつ分離を待ち、柄杓で上澄みを掬う方法しかなく、しびれを切らした旗艦能代はコロン島への単独回航を命じた。
 10月26日、必死に燃料分離作業を続けながら回航中、ついに敵機に発見され、波状攻撃を受けることとなった。この時、艦長平山俊夫中佐は雪風那珂の例と同じく、艦橋の天蓋から身を乗り出し、航海長の肩を蹴飛ばすという戦車のような操艦で爆撃を回避。さらに艦首を風上に向けることにより豪快な艦首波を発生させ、12ノットをあたかも20ノットで走っているように見せかけて敵機の照準を狂わせるという奇策で回避を成功させている。しかし、集中攻撃の連続に、ついに1本の魚雷を避けきることができず、1番砲塔下に命中。艦首が吹き飛ばされ、行脚が止まってしまった。動けなくなった早霜へは機銃掃射が集中して叩き込まれ、機銃員に死傷者が続出する。しかし早霜乗員たちはそれにめげず、機関兵までが飛び出してきて機銃を撃ちまくっていたという。ついには平山艦長も負傷したため、駆逐隊司令の白石大佐が代わって指揮を執り、沈没を防ぐためセミララ島の浅瀬へ微速でのし上げ、擱座した。早霜の母港(本籍)は横須賀。そのため乗員はほとんどが東京、茨城、千葉、栃木、神奈川といった関東人で占められ、血の気が多かった。上半身裸で背中の彫り物を剥き出しにし、「ベラボウめ、負けてたまるかッ」と雄叫び狂いながら引き金を引くさまは壮観だったという。
 その頃、鬼怒の救援に向かっていた不知火が早霜を発見、救助のため接近してきた。接近する味方駆逐艦の姿を認めた早霜は「ワレ早霜、敵襲ノ恐レアリ、来ルナ」と信号を送ったが、不知火はそれに構わず沖合1000メートルに停止し、救助のカッターを下ろし始めた。だが早霜の悪い予感は的中した。作業を始めた直後、案の定敵機が来襲したのである。不知火は急いで離脱を図ったものの、速力が上がらないままに艦中央部へ爆弾が直撃。爆発と同時に大火柱が噴き上がり、全艦猛火に包まれつつ真っ二つに折れて轟沈するという凄惨な最期を遂げた。余りに凄まじい爆沈であったためか、第18駆逐隊司令、艦長以下乗組員全員が脱出する暇もなく戦死を遂げた。
 続いて救援に来た藤波(未実装)もやはり空襲を受け沈没。同艦が前日救助していた鳥海乗員もろとも一人残らず戦死した。動けない早霜は、その光景をただ見つめるほかなかった。その後、那智から発艦した水上偵察機が早霜を発見し着水。乗員から両艦の最期を聞き取っている。乗員たちは陸上に2週間ほど放置されたのち、派遣された救助船によって生還した。生存者のうち、残留員の田口大尉以下30名はセミララ島部隊を編成、米軍上陸後にマニラを目指したものの、途中で現地民ゲリラと交戦し1名を残して全滅した。この1名もマニラへ辿り着いたことははっきりしているが、その後は消息不明となっている。
 幾度もの空襲によって早霜の船体は蜂の巣と化し、再起不能の廃艦となってしまっていたため、放棄が決定。軍艦旗と暗号書類を焼き、船体はその場に置いて行かれた。主砲弾も機銃弾も全弾を撃ち尽くし、魚雷も誘爆を防ぐため投棄していた早霜は、もはや自爆することすら叶わなかったのである。打ち捨てられた早霜の船体はのちに米軍が捕獲し調査しているが、その後どうなったかは定かではない。
 助けに来た艦が次々と目の前で爆沈・乗組員全滅の地獄を見たせいだろうか、薄幸な霊感少女のような外見と口調。それでも提督二人称司令官に対して一定以上の信頼は持っているらしい。なお、助けに来た一人であった不知火を何故か時報で牽制している。「『私達』に御用」
 日本では4代目インスパイアとして販売された北米アコード。日本で販売されたアコードとは大きなが格段に違う。3リッターV型6気筒SOHCのJ30Aを搭載し、これに6速MTが組み合わせられる。シフトノブはS2000と共通のものを使用している。インスパイアは2007年にモデルチェンジしたが、2012年には日本での販売を終了してしまった。しかし北米やアジア仕様はモデルチェンジをし、アコードの名で現在も販売されている。日本では現在、アコード ハイブリッドが販売されており、さらにはレジェンドも新たなシステムを武装して2015年2月に販売される。
 早霜の持つ北米アコードは、優雅に美しいように洗礼され、彼女らしい華やかな装備でチューナップされている。とりあえずアンダーが出ないよう工夫がされている。

■清霜
●ヒュンダイ/ジェネシス クーペ 3.8 トラック'13

・パフォーマンスポイント(PP):498
「あの韓国の『ヒュンダイ』が生産する、サーキットを意識した高性能スポーツクーペ」
 ジェネシス クーペは、高級セダンのジェネシスとプラットフォームを共有するスポーツモデル。ティブロン、タービュランス、トスカーニと続いてきたヒュンダイ クーペの直系で、2008年に発表された。
 セダンより全長が345mm、ホイールベースが115mm短縮された車体は、FRレイアウトや4輪独立懸架の足まわりとの組み合わせで優れた運動性能を実現。パワーユニットは3.8L V6との2.0L 直4ターボが用意され、FRのスポーツクーペというパッケージングが貫重になっていることもあり、世界的にも注目を集めた。
 アメリカではフォーミュラDやパイクスピークのヒルクライムなどモータースポーツにもチャレンジし、好成績をマーク。その素性の良さを証明した。
 2012年、マイナーチェンジが行なわれ、フェイスリフトを受けたことでより精悍な印象を得た。特筆すべきはエンジンが全体的に大幅なパワーアップを果たしたことで、とりわけ3.8LV6は約350PSと、スーパースポーツカー級の数値。同時に従来の6速MTに加え、パドル付8速ATもオプション設定された。
 最も高性能なグレードは、3.8トラック。スプリングやダンパー、スタビライザーをサーキット開発のヘビーデューティな仕様に変更、フロントのキャリバーを調整式とし、トルセンLSDを備え、さらにブレンボの4ピストンキャリパー装備するなど、スポーティな走りに特化したモデルとなっている。
 そのパフォーマンスは、伝統あるテスト機関AMCIのテストで同クラスのライバル達を楽に凄ぐ数値をマークしたほどだ。
 2014年夏イベントにおいて先行実装。現在はイベント終了のため、入手方法は無い。
 同じイベントドロップ限定艦娘である早霜と違い、改造後は三式ソナーを持ってくる。
 ちなみに「戦艦戦艦」と言っているが、改造しても戦艦にはならないのであしからず。中破絵が誰かに似ているらしく、重巡と間違われることがあるかもしれない・・・
 2014年9月12日現在、春雨・早霜と共に改造後に中破させた場合には、中破グラフィックが図鑑に登録されないため、登録させたい場合には必ず改造前に中破させる必要がある。
 「清霜」とは清らかに白く美しい霜のこと。
 マル急計画によって建造された駆逐艦。夕雲型の末妹であり、純粋な艦隊型駆逐艦(甲型)としても末っ子である。
 同時実装の早霜は第二駆逐隊での僚艦である。他には秋霜(未実装)、早霜戦没後に第三一駆逐隊から転出してきた朝霜(未実装)がいる。
 浦賀生まれを自慢しているが、これは浦賀船渠が近代日本初の大型船造船所として作られた由緒ある造船所であるからだろう。2003年に閉鎖されちゃったけど。ここで五十鈴や時雨など、名立たる艦これ実装艦艇が多数建造されている。
 竣工から間もなく輸送作戦に駆り出され、「伊号作戦」では多摩、木曾、皐月と共に第二輸送隊を構成した。僚艦を変えながら「ろ号作戦」などの任務に従事した後、第二水雷戦隊・第二駆逐隊に編入された。
 レイテ沖海戦では爆撃機による直撃弾を食らうものの、浜風と共に武蔵の最期を見届けた。この時に武蔵から「こっちに来い」という信号を受けたが、その巨体沈没時に発生する渦から退避するため近づけなかった。
 礼号作戦ではを旗艦とした挺身部隊の一隻として参加。夜間ではあったが明るく迎撃機の攻撃にさらされ、清霜に爆弾が直撃して炎上、航行不能となり、最終的に大爆発を起こして沈没した。(なお艦長はのちに、爆弾命中にしては被害が大きすぎたこと、煙突から炎が噴き出していたことから、実際は魚雷艇の魚雷が命中したのではないかという推測を述べている。)旗艦霞では、見張り員の「清霜、爆発します」との報告に、木村司令官は「後で拾いに行く、位置を記録しておけ」とだけ命じ、何事もなかったかのように作戦指揮を執り続けたという。そして、殴り込み作戦を達成後、木村艦隊は沈没位置に戻ってきた。霞と朝霜が足柄・大淀らの援護のもとで救助を行い、乗員の7割余りにあたる253名が救助され、米軍にも5名救助された。時期的・地理的・戦況の上でも極めて厳しい条件にも関わらず多数の乗員が救助された理由は、霞のページ記載のエピソード参照のこと。
 同じ夕雲型である長波同様、彼女も髪の色が表と内側で異なっている。長波の内側がピンクであったのに対し、清霜の名にふさわしく青である。髪色の構造については長波のページ記載の解説参照のこと。
 
ジェネシスはヒュンダイから発売された高級セダンで、ヒュンダイ史上初めてFRを採用したクルマである。それをベースにクーペを作り、2008年より販売開始した。収録モデルは2012年にマイナーチェンジされた後の後期モデルである。エンジンは2.0Lの直4ターボと3.8LのV6を選択でき、どちらも6速MTが用意された。オプション設定だが、5速/6速ATも用意されている。
 日本では2009年にヒュンダイが日本市場から撤退したので正規販売されていないが、フォーミュラDでの活躍や「安く買える2Lターボのクーペ」という事で、OPTION2やドリフト天国を編集をしているディーズ・クラブなどが設立した「ジェネシスJAPAN PROJECT」が日本に並行輸入して販売している。また、日本のチューニングパーツメーカーもこの本車専用のパーツを販売しており、並行輸入車としては珍しい(?)事例である。
 彼女の持つジェネシス クーペは、深海棲艦の戦艦
タ級が持つ同車と違い、日本で製作されたモデルである。安全性能や電子デバイスなどの強化、足まわりやブレーキ等のアライメント部分も手を加え、安全基準に満たすよう製作された。操作性も改善されており、コーナーによるオーバーステアは軽減された。

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