店主・中村秀一さんのチャーミングな笑顔と、珠玉の「冬ごもり本」に体の芯までほかほかにあたたまったわけですが、今年に入って一層猛威を振るいはじめたこの寒さ……!
こいつはもう一度、中村さんを頼るっきゃない!と厚かましくもお願いしてみると、快諾。厚かましいついでに、前回ほのめかしていた「全テーマを村上春樹の本で」というのをやってくれませんか?と頼んでみると、「せっかくなので、お店の定休日に過ごしている山小屋に招待します!」と倍返しな提案をしてくれた。
山小屋で読む村上春樹。やれやれ、とんでもないことになりそうだ。
都心から2時間ほどかけて山小屋へ。
この日は小田急小田原線本厚木駅に集合。山小屋は、駅からクルマで30分ほどの清川村にあるということで、中村さんが迎えにきてくれることに。
中村さんが山小屋を手に入れたのは、3年前のこと。いわく、「『海辺のカフカ』や『騎士団長殺し』の影響で、人里離れた小屋での暮らしを考えるようになったのが、そもそものはじまり」だったという。
村上春樹『海辺のカフカ』(上)(下)
「『海辺のカフカ』に出てくる主人公の男の子は、高知県の森のなかでの暮らしを余儀なくされます。それが、山小屋ごっこのルーツとも言えるかもしれない。『騎士団長殺し』もそうですが、これらの体験を目指して、このフィジカルな現実逃避をはじめたところが大きい。
物語のなかには、大雨のなか、主人公が全裸で外に出て行くシーンがあります。そういうのって、東京の自宅で読むのと、人里離れた山小屋で読むのとではリアリティがまるで違ってくる。『大雨が降れば、まあ脱ぐこともあるよね』みたいに、その必然性をちょっと信じることができるんです」(中村さん)
物語のはじまる気配に、中村さんの声が不自然に反響し、クルマのなかの空間がゆがむ。ぽっかりと空いた穴から“あちら側”に引きずりこまれそうになる。……ような妄想が広がる。
インターネットに載っていない情報を信じたい。
清川村を選んだ理由については、「グーグルマップを開いて、住んでいる世田谷エリアから一番近い“緑”を探しました」と単純明快。でも、そこからが大変だったとか。
「清川村に決めたはいいものの、村には不動産がありませんでした。本厚木の不動産屋が管理していたのですが、そこで話を聞いてもいまいちリアリティがなかった」(中村さん)
そこで中村さんが取った行動は、探偵みたいに村を歩き回るというもの。空き家らしき物件を見つけては、近くに住むひとに聞き込みを重ねたんだとか。
僕ならきっとインターネットを頼ってしまうな、と感心していると、「ネットを信じないわけではありません。でも、ネットに載っていない情報の方を信じたい。あえてそちらを取りたいんです」と中村さん。そんな言葉に、村上春樹がエルサレム賞を受賞したときの「壁と卵」の話をなんとなく思い出した。
なにをするにもシングルタスク。集中力はケタ違い。
探偵のように、自分の目と足を使ってようやく見つけた空き家。もとは「土建屋の若手社員が作ったらしい」建物だったのを、オーナーを見つけて譲ってもらったのだとか。
中も外もボロボロだったそれを、自らちょっとずつ手直しながらようやく住める形に。基礎を整えるだけでも1年かかったのだとか。
「ようやく人を招くことができる状態になったのは最近のこと」と言いながら玄関を開けてくれる中村さん。足を踏み入れると、そこには衝撃的な光景が……。
周辺の環境や山小屋の外観からはおよそ想像できない、コージーでソフィスティケイトされた空間。玄関ドアが、異空間への入り口だったと聞いても信じちゃうよ、これ。
“なにもしない”をする時間。
広いテラスがついた2階建の山小屋。どこを切り取っても絵になってしまうこの場所で、主にどんなことをして過ごすのか聞いてみると「特別なことはなにもしない」と中村さん。
音楽を聴く。本を読む。焚き火をする。焚き火をするために、林に入って倒木を拾い切り分ける。そうやって、シンプルに時間を過ごしているんだとか。
「食事は、保存食として持ってきた缶詰。きまぐれに料理をすることもあります。そういうときは、森で採ってきたしいたけを使ったり、その辺に咲いている植物を天ぷらにしたりすることも。小屋の外で、わざわざ焚き火で肉を焼いたりすることもあります」(中村さん)
なるほど、同じ「料理」という行為でも、山小屋ならでは。他にも東京の暮らしと違う例はあるか聞いてみると、「全部が違いますよ」とさらり。「なにをするにも、集中力が違います」。
「たとえば音楽を聴くとき、東京の自宅で聴くときはどうしても“ながら”になってしまいます。でもここでは、“本当に音楽を聴いている”。まるで、毎月少ないお小遣いで買った一枚のCDを繰り返し繰り返し聴いていた、中学生の頃の気分です」(中村さん)
時間だけはたっぷりある山小屋では、マルチタスクは無用。すべてはシングルタスクなので、行為はよりソリッドに、より丁寧になっていくそう。
本読みの特権を感じる、山小屋での時間。
村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
そんな“集中力が研ぎ澄まされる”山小屋で、読書はどんな風に変わるんだろう? 中村さんオススメの、「山小屋で読みたい本」を紹介してもらった。
「『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』には“静”と“動”のふたつの世界があり、それぞれの話が交互に進んでいきます。山小屋で読むと、振り子構造のその世界に徐々に沈んでいく感覚を、より強く味わえる気がします。
集中力の高まりとともに、物語はどんどんリアリティを帯びていく。たとえ内容としては荒唐無稽なものでも、ありえないようなことを『さもありなん』と信じさせることが、物語の力ですよね。
本を読んでいると、十中八九起こらないようなことを、起こったかもね、と信じることができるようになってくる。それは本読みの特権でもあります」(中村さん)
村上春樹『蛍・納屋を焼く・その他の短編』
「なにかを信じる力につながるという文脈でいうと……」と中村さんが続けて紹介してくれたのは、短編集に収録される「納屋を焼く」の物語。
「主人公と、友達以上恋人未満みたいな女の子と、その女の子の友達以上恋人未満みたいな男性と3人が、主人公の家でハッパを吸います。そこで、男性が打ち明け話をする。『ときどき、地図を見て、いいなと思った場所の納屋を焼くんです』と。
それ以来、近所の納屋をパトロールするようになる主人公。でも結局、どの納屋も燃えることはありません。しかし、しばらく後に例の男性と再会すると、『納屋を燃やしましたよ』と告白される。そんな話です。
これは、自分次第でいろんな解釈ができる物語。『そんなことありえない』って言えばそれで終わりだけど、こういう場所で読むと、『よし、じゃあ一度信じてみようか』と自由になれる。自分のなかへの物語の入っていき方が、まるで違ったりします」(中村さん)
自然に触れると、創作意欲が湧いてくる。
イノシシや鹿が出没することもあるというほど、自然がすぐそこにまで迫るこの山小屋。話をやめて耳を澄ますと、川のせせらぎが聞こえてくる。
「この山小屋にいると、様々な創作意欲が湧いてきます。とくに、手を動かしてなにかを作りたいというようなフィジカルな欲求を、東京にいる間でも感じるようになりました。
村上春樹『職業としての小説家』
『職業としての小説家』はタイトル通り、村上さんが自分の仕事のやり方について書いたメモワール的作品。
『小説家』とありますが、決して専門的なことを書いているわけではありません。クリエイティブなことをしているひとには、参考にできることが多い。なにかを作りたいというような希望も湧いてきます。
自然のなかに身をおくと、ひとはどんどんクリエイティブになっていくと言われています。
ここは大した自然ではありませんが、どこからか立ち上る煙や焚き火の炎を眺めたり、川のせせらぎに耳を澄ましたりしていると、たしかにスイッチが入るような瞬間がある。都会の規則性と自然の規則性には違いがあって、そんなことに気づくと、チャクラが開くかもしれません」(中村さん)
行き帰りのクルマで、“整う”。
早朝と深夜を選べば、行き帰りはクルマで1時間ほど。通い道だから、信号だけ見ながらほとんど自動運転。しかるべくして、クルマで過ごす時間もちょっと特別なものになっているとか。
「とっぷり物思いにふけることができて、まるで瞑想しているような感覚を味わえるんです。
大事なのは、なにかを考えようとしないこと。ぼうっと走っているうちに自分になにか降りてくる、その流れを取る。すると、『高校2年生の体育祭であの子からもらったカルピスの味』のことをなぜか思い出したりして……(笑)
サ道で言うところの“整う”に似ているかもしれませんね。たかがクルマでの1時間ですが、『今日はよかったな』と思える日もある」(中村さん)
ちなみに音楽にも一家言あり。中村さんはもっぱら、歌詞がなくて音数の少ないクラシックを選びます。クラシックを聴きながら違う世界にトリップするなんて、まさに村上春樹的だ。ヤナーチェックを聴きながら鼻歌を歌う中村さんを、こっそり想像してみた。
好奇心と行動力が、ものをいう。
山小屋という“装置”を使うことで、同じ読書でも(そのほかどんな行為でも)まったく違った様相をみせる。とりわけ集中力の違いが寄与するところが大きく、それは“信じる力”にもつながる。なんて壮大なことを教えてくれた中村さん。
山小屋を手に入れるのが難しいのなら、いつもの週末にちょっと遠出して“何もしない”ことをするためにコテージに一泊して過ごすのもいい。それに、廃リゾートホテルや空き家が社会問題となっているいまだから、空き家を手に入れるのはそう難しいことではないのかもしれない。
なにより大切なのは、中村さんのような持ち前の好奇心と、自分のやりたいことに正直になる行動力なんじゃないでしょうか。
やれやれ、中村さんのせいで、またイチから村上春樹を読み直したくなってきたよ……。
Photographed by Kaoru Mochida
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