れおまま 本の館

「神の小屋」読了

2017/06/11 15:50 投稿

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この秋、「アメージング・ジャーニー」という映画がロードショーになる。以前上映されていた「沈黙ーサイレンスー」という映画ののチラシには、こう書かれてあった。「なぜ、弱きわれらが苦しむのかー」。その応答として「アメージング・ジャーニー」は位置する映画なのだというふれこみ。
その映画の原作本が、この「神の小屋」である。
総ページ数368ページ。かなり分厚い。海外のカタカナ表記が苦手な私は、最初この本を前に尻込みをした。初めて手にとった聖書のカタカナ表記の多さに拒絶反応を起こした時を思い出した。
それでも、意を決して読み始めると、その展開の凄さ、内容の濃さに「次は?次は?」という思いになり、結果的に3日〜4日で読み終えた。

少女ばかり狙う殺人鬼に愛娘を殺された主人公マックの苦悩と、神との対話によりその悲しみ、怒り、苦しみ、やり切れなさから解放されるまでを描いており、「現代のヨブ記」とも言われている。
もちろんフィクション本だから、そこに書かれている「神(信仰)に関する価値観」は著者独特のものだとは思うのだが、読めば読むほど私の中で何かが生まれるような…何かに気づきそうな…そんな刺激を受けた。

黒人女性の姿で現れるパパ(父なる神)、大工仕事に精を出す生き生きとしたイエス、見えそうではっきり見えず掴めそうで掴めない聖霊のサラユー(風)。台所で鼻歌混じりに料理を作る父なる神さまなんて、想像しただけでくすっと笑ってしまう。

そして三位一体の神は、怒りと憎悪に満ちた主人公マックに語りかける。
「私はこの世に善しかおいていない。それに善悪をつけてしまうのは、いつも『独立の道』を選んだ人間だった。『創造』を破壊し、その道を選んだ人間に、愛ゆえにその道に進むことを私は赦した。なのに人間は自分たちの思う通りにいかないといつも私に文句を言った」

またイエスも言う。
「私は『制度』をつくった覚えはない。『制度』をつくったのは神を演じたがる人々だ。私は『宗教』が嫌いだ。私たちが三位一体なら、人が作った恐怖の三位一体は『宗教・政治・経済』だ。だから私は『機構』なんていうのも嫌いなんだ」

サラユーも続ける。
「イエスは人を癒したり奇跡を行える力はなかった。だって人間として世に来たから。ただパパ(父なる神)の愛を信じただけだったのよ」

人間を責めているわけではない。
「それでも、私はあなたたちを愛している。世のすべての私の子たちを」
「あなたが感じなくても、私はいつもあなたと一緒にいる。感じるか感じないかなんて関係ないの」

この著者の信仰的価値観は自分と似ているな…と思った。
信仰を持っていなかった小さい頃から、私の中に在る「神」は人が名前をつけられるような、定義づけられるような存在ではなかった。ただ、この宇宙の全てをその両腕で包み込んでいるような感じがしていた。
旧約聖書「ヨブ記」の中に、以下のような文章が出てくる。テマン人エリファズの言葉だ。
(神は)六度苦難が襲っても、あなたを救い、七度襲っても、災いがあなたに触れないようにしてくださる。
ここを読んだとき、「どんな苦難も神さまが救ってくださるのだ」とは私は解釈しなかった。なぜそのような解釈をしたのか定かではないが、「私の知らない災いから、苦難から、神は救っていてくださる」と解釈した。
それと同じことが、この本の中に出て来た。
パパ(父なる神)が主人公に言う「あんたは見てもいないし、経験もしていないからわからないだろうけど、あんたが思っている以上に私はあんたの知らないところであんたを災いから救っているんだよ」との言葉だ。
これが正解というわけではない。ただ「あぁ、やっぱり」と思った。
私たちは小さなことで怒り悲しんだりもするけれど、本当はそれ以上の災難から知らないうちに救われている、いわゆる守られているんだなと。

主人公のマックが結果的にどう解放されたのか、気になる方は実際に本を手にとって読んでみたらいいと思う。
でもマックがどうなったかという結果が大事なんじゃない。結果に至る「経過」が大事な部分なのだろうと個人的には思う。

願わくば、この感動が映画となったときに壊されませんように。


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