年若き新人さんを見るに見かねて言った言葉である。
教育の失敗だろうか、ものの道理がわからないような人が増えている。
嘆かわしいと思うのは私だけだろうか。
以前の投稿で書き損じていたことを載せたくなった。
いろんな意見があるだろうが、
「若いから」「人それぞれ」「まだ未熟なんだから」
ですまない状態が目に付く。
まあ、愚痴に近いのはご容赦いただきたい。
★「今時の若い者」
私はこの言葉が好きではない。
私自身はこれを言われるようなことはなかったはずだ。
もちろん、それでも気づかない未熟な部分は多々あっただろう。
けれど、それを言った人と同じ年齢になったとき、これを言われる筋合いはないと感じた。
「なにを偉そうに」と言っているのではない。
言葉は悪いが
「あなた程度の実力の人に文句つけられるようなことは1つもやっていない。
私ぐらい仕事ができるようになってから言いなさい。」
ということだ。
もちろん礼儀や態度も込みの話だ。
「仕事がちょっとできるようになった跳ね返り」ではなかった。
そういう状態だったので「今どきの」という言葉は嫌いだったし、使わなかった。
けれども最近ほんとにその言葉を使いたくなる人が多いのだ。
「ひと昔前の新人」とくらべて「レベルが違う程仕事ができない」ひとが多い。
私自身は、
「仕事のできる出来ないは人による。才能、情熱、過去の経験いろいろあるが、
過去の経歴で判断するのは早急である」
という意見をもっている。
それでもなお
「最近の若い人はかなりの割合で仕事ができない。完全に個人の事情というのは間違っているかも」
と考えるようになっている。
★注意力散漫
具体例は挙げないが、
「右なら相棒が仕事がやりやすく、左ならやりにくい。
何回か手伝う間にやりやすい方向が変わるのだが、それに全く対応できない」
というおそまつさだ。
難しい話ではなく、目でみればわかる。
「やりにくい」とは、左右どちらかを使うと「手が届かない」から「手が届く方で頼む」
という、とてもとても原始的な理由で、
言わなくても相棒が右にいるか左にいるかは「見たらわかる」のだ。
まあ、言ったときはやるのだが、次の日もその次の日も、同じようなことで左右を間違える。
さすがに「見たらわかるんだから見ろよ」と思ってしまう。
こういう人は、一昔前だといなかった気がする。少なくとも居続けるのはムリだった。
ところが最近こういう感じの人がかなり多い印象がある。
★いうことを聞かない
「こうすればいいよ」というのを無視してやりやすいやり方でやるケースも多い。
というか、聞く人が少ない。一昔前だと怒鳴られてクビ、というレベルだ。
たとえば「こういうことが起きたら、すぐにこうしなさい」と教えた次の日、全くやらない。
また教えても次の日にはやらない。
ここまでとは。
今節のタイトルは、あきれたので突っ込んだセリフから。
「あなたは過去この仕事で一流だったのかい?」
「違うのなら、あなたがやりやすいようにやったら、それは素人仕事なんじゃないの?」
まあ、こういうことを教える立場になるとは思わなかった、という話だ。
★道徳、資本主義経済、競争社会への認識不足
こういう笑い話は果実の部分であり、その根は過去培った人生観にあると思う。
「仕事は社会にお役に立つためにやるものであり、
役に立った分だけ、お礼の代わりとして賃金がもらえる」
この程度のことでいいので理解していてほしい、と考える。
上記は以前の日本の教育でも述べられていた内容だと思う。
それ以上の人生観はなかった気もするが、今はこういうことすら「0から」教えないといけないようだ。
★政教分離の果実と道徳の復権
戦前と言われる時代がとても道徳的によかった、とはいわないが、
少なくとも
「人の生きる道を忘れた人間がどういうふるまいをするか」
という実験はもうよい。
予定されている道徳教育の復活は、未来の日本人への贈り物となるだろう。
人は先天的に「よきもの」を好むが、それは教えられないと発芽しないようである。
表舞台から「よきもの」が姿を消して久しい。
「目に見えないもの」を信じず
「自分が良ければ人がいくら苦しんでも構わない。どうせ死んだら終わりだ。」
と考える人の多き事よ。
あの世からの生還報告は多々あるが、「あの世がない確認」の報告は一件もないというのに。
ダーウィンの罪は、
「世界には物質しかないから、人間は偶然にアメーバから進化したものだ」
という唯物思想である。
贖罪にはまだ長き年月がかかるだろう。
★人として生きる
オオカミに育てられた少女は「人語」を解さず、オオカミとして死んだと聞いている。
人間と動物を分かつものは「よき教育」である。
人として生きていながら動物の習性を身に着け、
人としての尊厳を捨て、良心に背いて地を去ったなら、
来世待っているのは暗い世界であり、来々世は人の世界ではない。
それが原因結果の連鎖である。
水は高きから低きにながれ、熱は熱いところから冷たいところへ伝わる。
法則が違われることはない。
身に見えないものに対する畏敬が失われて久しいが、
それは人間心を超えたものだ。
法治や民主主義とは違うのだ。
「悪いことはやってない」「これぐらいはみんなやってる」
という言い訳は むなしいものになるだろう。
「その時」は万人に訪れる。
よきものを学び、人として生きるのが勝利の道の第一歩だ。
やさしくあってください。
勤勉であってください。
おだやかであってください。
慎み深くあってください。
明るく生きてください。
よきものを信じてください。
強くあってください。
世のために生きてください。
そして、大いなるもののために生きてください。
コメント

人間は霊、魂が本体であり、転生輪廻することで魂を磨いています。
宇宙以降の多次元平行世界のすべてと、すべての生命を作られた「クリエイター」に近づくためです。
(以後「神」と書きます)
神は人間をよしとされて、「永遠の生命」「完全なる自由」「思いで創造する力」を与えられました。
神は私たちが認識できるような存在ではないのですが、よく「神とは法則」と言われます。
「原因結果の法則」「魂エネルギーの周波性」は神そのものといってよく、
地上で悪い思いに染まった魂は、「神の光と周波が合わず、目に見えない世界の中で暗い世界」に引き寄せられます。
悪き思いの世界です。
ここに行った魂は自分が苦しい責めにあっていることに納得しないのです。
さらに神の光によって活動エネルギーを得られないために、「悪い思い」をエネルギー元としてい... 全文表示