奇跡的な生還を果たした事例は星の数ほどあるだろう。
大いなる意思が働いたとしか考えられない現象もある。
されど私はこういう。
それは奇跡ではない。
当たり前のことが当たり前に起きただけだ。
それは奇蹟ではない。
★奇跡とは
きせき
【奇跡・奇蹟】
常識では起こるとは考えられないような、不思議な出来事。特に、神などが示す思いがけない力の働き。また、それが起こった場所。
私は「奇跡は起きない」「そんなものはない」と言っているのではない。
私が言う「奇跡は無い」とは、「神が起こすような現象がない」と言っているのではない。
「考えられないような不思議な出来事」
これが「無い」と言っているのだ。
「みなさんの常識でいう奇跡はある。」
「それは、成り立ちをきけば、ごく当然のものだということがわかる」
ということなのだ。
奇跡否定派には申し訳ないのだが、
私は既にありがたみが薄れるほどの奇跡事例をきいている。
なので、「条件が整えば、起きて当たり前」と思っているということだ。
常識でいう奇跡の認定は
「この世の科学では説明不可能な良い結果が起きること」
でいいのだと思う。
悪い結果だと奇跡と呼ばれず、「運がない」と言われる。
旧約聖書にある、エリヤ対バアル信者達の、祈りによる戦いで、
バアル信者が天から降り注ぐ火の玉で全滅したのに、奇跡と呼ばれるわけは、
「結果がよかったから」に他ならない。
★奇跡の元
宇宙を創造された造物主は、「思い」によって全てを作られた。
その力は末裔である人間にもある。
しかし、考えてみてほしい。
あなたが「宇宙よ、いでよ。」と思ったら、宇宙ができるだろうか?
できないはずだ。断言してよい。
それが、なぜなのか、わかるだろうか?
「単純に、力が違う」
ということなのだ。
魂が肉体に宿るだけで、その力は10分の1以下になるそうだ。
なので、ふと思っただけで物質を作り出せる人間はいない、と思っていれば間違いではない。
イエスは人霊としては最高クラスの存在であり、物質化現象や心霊治療を行えるものであるが、奇蹟を願って「天なる父」に祈っている。
エリヤもイエスより少し下という高いクラスの魂であるが、ヤハウェに祈って手を借りている。
モーゼも最高クラスの霊体であり、奇跡を体現する「赤色光線」の魂であるが、海を割るのに、祈りによる奇跡を使っている。
「どれほどの魂の力があっても、肉体を持っている間は大した力は出せない」
「9次元クラスの霊体がその気になれば、簡単に大きな現象を起こせる」
ということだ。
では、9次元にいる大霊から見ればどうか。
「~してください。」「よし、わかった。」
ということだ。
彼らももっと上位の霊体からエネルギーを引いているらしいが、
彼らにとっては奇跡ではないということだ。
「海を割ることができる力の持ち主が、その力を出した」
「因果の理法どおり、起きるべきことが起きた」
もちろん、私は聖なるものを引き下げるつもりはない。
「その実力差を知りなさい。人間は、思いあがってはいけない」
と言っているのだ。
★引き寄せの法則
少し前に流行した、「引き寄せの法則」というものがある。
私はこれを詳しく知らないが、大方こういうことが書いてある、という推測はできる。
そして、良い結果を引き寄せるのに必要な「条件」が書いていないだろうことも想像できるのだ。
「引き寄せ」を実践した方に聞きたい。
狙い通りの結果が起きただろうか?
起きた方は素晴らしい。私にもコーチしていただきたい。
起きなかった方、なぜ起きないかわかるだろうか?
「心の純粋度」「信仰心」「願いの確信度」が足りないからだ。
法則が嘘なわけではない。純粋に、その実力がない、ということなのだ。
おそらく「引き寄せ」は、
「本人の願いを確信に変えることで現象を起こす」
「それがよい結果となって表れる」
ということを長々と方法論として説明しているのだと思う。
繰り返すが、これは嘘ではない。
自分のイメージする力に頼っているので、できる方が異様に少ないということだ。
つまり、起点もエネルギーも自前だ。
「イメージの力」が世に広がり始めてかなりの年数がたつが、
これが一般化しないのは、「できる人が限られているから」であり、
それでも今なお指導されているのは、「できる人がいるから」である。
★信仰と祈り
宗教関連だと、「即時、癌がきえる」ということは珍しい話ではない。
しかし、キリスト教で「イメージの力」を教えているという話は聞かない。
ニューソート系思想がそれにあたるのだろう。
イエスは、奇跡の人でもあったが、なぜ奇跡が起きるかについて何度か語っている。
イエスは「病気を治してほしい」と訪ねてくる人を、光エネルギーで治療していた。
けれど必ず、こういったそうだ。
「汝、我を信ずるや。」
「はい、私はあなたを信じます」
「汝が信ずるがごとき汝となれ!」
意味としては、
「自分が神の子と本当に信じるなら、神の子としてあるべき姿に戻りなさい」
ということだと聞いている。
これはイメージの力を引き出しているわけだ。
信仰心の強い人は、この言葉だけで、自身のイメージの力で治るはずである。
また、信仰心の力がどれぐらいのものかを知ることができる説法もある。
「辛子種一粒の信仰あらば、この山、動きて海に入れ、と言わば、しかなるべし」
「少しでも真実の信仰心があるならば、山を動かして海に沈めるなど当たり前にできる」
ぐらいの意味だ。
これは人霊として最高レベルの方の言葉であるので、すべての人ができるわけではない。
また、肉体をもった状態で、これができる方はいないのではないかと推測される。
ただ、信仰心というのは100%のものだけが本物だが、100%が終わりではなく、その上が無限にある、ということがわかる。
さらに、イエスは「悔い改める」ことにより、過去の罪が許され(心が浄化され)信仰の道に入ることができることを伝えている。
反省による魂の浄化が、奇跡を起こす力に代わることが示唆されているということだ。
それほどの力を持っていたイエスも、大掛かりな奇蹟に関しては、
「天なる父」に祈りを捧げている。
人類史に残る奇蹟はみな、「無私なる祈り」に答えた「神」が起こしたものである。
肉体を持っている大霊より、肉体のない「父」のほうが力が強いということだ。
★心の力
以上、「信仰心の強さ」「魂の透明度」「イメージの力」「祈り」が願いをかなえる、ということを載せた。
実はこれが「四正道」の実践でもあり、「引き寄せの法則」の元である。
引き寄せに全部書いてあったなら、申し訳ない。忘れていただいて構わない。
私が伝えたいのはこういうことだ。
「人間は霊であり、神の一部分でもある」
「神の創造性を人間は発揮できる」
「思ったことが起きる、というのは法則である」
「創造性の強さは、魂修業の段階に応じて大きくなる」
心の中には、偉大な力が眠っている。
魂に刻まれた使命は2つだ。
「偉大なるものとなれ」
「地上にユートピアを建設せよ」
心の力を発揮し、この世を素晴らしいものに変えていく。
これが人間に課せられた使命である。