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【考察・解説】セブン(Seven)

2017/12/03 02:53 投稿

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今回は映画『セブン』について考察する。



『セブン』(Seven, 劇中の表記は"Se7en")は、猟奇殺人を描いた1995年のアメリカ映画。監督はデヴィッド・フィンチャー。キリスト教の「七つの大罪」をモチーフにした連続猟奇殺人事件と、その事件を追う刑事たちの姿を描いたサイコ・サスペンス

本作は、アガサ・クリスティーの小説を読んでいるかのように物語が探偵小説的に展開していく。
七つの大罪をモチーフに人が殺されていき、しかも被害者の職業・社会的ポジションがバラバラであるという点が特徴的である。


(「傲慢」の罪を犯したとされ犯人に殺害される被害者)

これは、見立て殺人(そして誰もいなくなった)、クローズドサークル(オリエント急行の殺人)を想起させる。

つまり、七つの大罪になぞらえて人が死ぬ被害者にはなんの共通点があるのか、ということだ。
犯人は誰で、その意図はなんなのかといった非常に探偵的な展開に息をのむが、後半からはキリスト教解釈が重要な軸として展開していく。


①七つの大罪について
この点については、他のサイトに譲りたい。
「セブン、考察」で検索すればいくらでもヒットするであろう。
例えば、本作を見た人はこのような疑問に陥ることが珍しくない。「怠惰たる被害者(麻薬中毒者)は死んでない、あるいは赤ん坊の死も合わせると8人が死んでいて七つの大罪と死が符合していない」のは何故かといったテクニカルなことである。
この点は瑣末な議論に過ぎないと思われる。
なぜなら、犯人にとっては死ではなく、地獄と符号させたかったわけであるから死んだ否かはあまり関係がないのである。
事実、麻薬常習者のシーンでも医師が予後について、生きられるが光を当てた時点で死んでしまうだろうということを語っている。光を見たら死ぬという絶望に追いやったわけであるからこの点で罪と符号すると考えてさしつかえないだろう。
したがって、犯人の七つの大罪を殺人によって遂行するという目的は達成されたとみるべきであって、そこに存在する矛盾を説得的なロジックによって補うということは不要に思う。
胎児が殺害されたということについては、また別の意味が隠れているとも思われるので以下で補足する。


②ダンテの神曲について
本作の重要アイテムが二つ登場する。
その一つが、ダンテの『神曲』である。
内容は割愛するが、簡単に言えば、主人公たるダンテが、詩人ウェルギリウス(地獄篇
煉獄編)とベアトリーチェ(天国編)に案内されながら、地獄と天国を巡っていくという内容である。

毎日のように起こる殺人事件を目の当たりにしているミルズ刑事とサマセット刑事は「この世は地獄だ」との見解に一致する。


地獄篇 邪悪の壕(マルポルジェ)をいくヴェルギリウスとダンテ

つまり、この作品は、端的に言えば、ミルズ刑事をダンテ、サマセット刑事をウェルギリウスに見立てた地獄めぐりそのものを表した作品であることがわかる。
そして天国編を案内してくれるのは妻ベアトリーチェである。

したがって、サマセットとミルズの妻は水先案内人としての役割を果たさなければならないため、そのセリフ回しも自然と詩的かつ文学的になっている。
妻がミルズの子どものことを相談したのも、地獄に子どもを生み落してもよいものかと、地獄を知り尽くしているヴェルギリウスへの相談として描かれる。


③カンタベリー物語について
本作の重要アイテムの二つ目がこの『カンタベリー物語』である。


(『カンタベリー物語』(The Canterbury Tales)は、14世紀にイングランドの詩人ジェフリー・チョーサーによって書かれた物語集である。聖トマス・ベケット廟があるカンタベリー大聖堂への巡礼の途中、たまたま宿で同宿した様々の身分・職業の人間が、旅の退屈しのぎに自分の知っている物語を順に語っていく「枠物語」の形式を取っている。)

この話の肝は、社会的階層が取り払われ、ミサに向かうという共通の旅の目的があるという点である。
すなわち、天国では社会的階層が無視され、皆が等しく祝福されるのである。
この体裁を採っている映画がある。
1997年のアメリカ映画『タイタニック』だ。内容は皆さんご存知の通りだろう。


(一等客室での貴族社会を描くシーン)



(三等客室で、アイリッシュ(アイルランド移民)の音楽に合わせて踊る主人公たち)



(ラストシーン、ここは天国であり、一等客室の乗員も三等客室の乗員も皆平等に二人を祝福している。死後の世界という意味での天国ではなく、ケルト民族信仰における天国である。映画では、少女がこの天国について言及するシーンがある。この点、詳細を書きたかったが大学時代の西洋政治学の資料を漁る必要があるため、面倒くさいので割愛する。なんとなく理解していただければ幸いである)

つまり、七つの大罪として死に追いやられた人物たちは社会的階層がバラバラであって、ただ救済の対象として罰を与えられたということのみが共通しているのである。
そして、セブンのもう一つの意味がここにはある。
七つの大罪という意味のセブンと、一週間通してという意味のセブンのダブルミーニングになっているということである。
月曜日から土曜日にかけて人が次々に死んでいく。
その度にミルズ刑事は、自身がダンテとして地獄めぐりをしていることに気づかなければならなかったのである。
つまり、日曜日はカンタベリー大聖堂というミサに向かう日、祈りの日なのである。
にもかかわらず、ミルズ刑事は日曜日という安息日に仕事に出てしまった。
そして、妻と子を殺害され、神罰としてこの世(煉獄)を彷徨ってしまったのである



(さまよえるオランダ人。リヒャルト・ワーグナーオペラさまよえるオランダ人』(1842年)の題材として有名である。安息日にもかかわらず、自己の利益追求のため漁に出てしまったため神罰がくだった。そしてついに、煉獄をさまようことになったのである

「ダンテの神曲を読み、自分はダンテそのものであって地獄めぐりをしているということ、カンタベリー物語を読み、社会的階層が取り払われている意味について考え、日曜日に神に祈れるかということ、その二点に気付け!」
二冊の本を読めと言うことによってサマセット刑事(詩人)はミルズ刑事に警鐘を鳴らしていたのである。


④最後に

サマセット刑事は、「この世は素晴らしい。戦う価値がある」というヘミングウェイの言葉を引用し、後段のみ肯定し前段を否定する。
解釈に修正を施すと、「あの世は素晴らしい」あるいは「この世は素晴らしくない」ということになる。
これこそ、みな、原罪を背負って生きているというキリスト教の教義そのものである。
タイタニックは、二人が天国で祝福されるシーンでおわるが、セブンはこの世で絶望しておわる映画になっている。
また、前者は恋愛物語、後者はホラー探偵物語としても対称的である。
グロ耐性がないと厳しい?ほどでもないが、本作を見る場合は、タイタニックと根底に流れている思想は変わっていないということを意識してみると良いだろう。

ちなみに、日本の映画ではまずこのような構成の映画はない。
なぜなら、日本にはキリスト教や移民といった文化的背景が皆無だからだ。なので、西洋文化や宗教に対する意識が薄い日本人にはこのような重層的な映画は作れないだろう(一方で、日本では天皇制や家族制度といったものが映画に重みづけをしてくれるはずだ)。

仮に作ったとしても、単なる猟奇殺人を描く映画止まりで、至極うすっぺらい物語になってしまい、下手なトランペットを聴いているかのように、開始30分も見てられないクオリティになってしまうだろう。
事実、和製『セブン』と言われた『ミュージアム』という作品だが、犯人はアーティストを自称し芸術的に人を殺していくことに意味を見出していく。
芸術性を理由に殺人を行うのは、芥川龍之介の『地獄変』の真似ごとにしかみえなく、文学作品の二番煎じ以下に成り下がってしまっていると言わざるを得ない。
その点で、このミュージアムの原作は全く評価できない漫画である。


劇場公開日 2016年11月12日 雨の日だけに起こる猟奇殺人事件を追う刑事の沢村久志。犯行現場に残された謎のメモや、見つけられることを前提としたかのような死体から、カエルのマスクを被った犯人像が浮かび上がる。通称・カエル男と呼ばれるようになった犯人を追い詰めていく沢村だったが、

話しが逸れたが、邦画と洋画には根本的に文化的背景が異なるため、作り方もそれぞれ工夫が必要のように思う。
単に、洋画のつくりを真似たり、日本特有の文化的背景を蔑ろにしたりすると、作品の面白さを効果的に伝えることができなくなってしまう。
つまり、そのような思索をするような時間が、作り手には必要であろう。


(ラストシーンで犯人を打ち殺すシーン)

個人的には、この世に怒りを感じ拳銃で自分の頭を撃ち抜く(憤怒の罪)と思ってました。本作では、その後ミルズ刑事は護送されることになるのですが、個人的には、ミルズ刑事が刑務所の中で最後、詩を書くというシーンを引きでインサートして終わるという展開も面白いのかなあと思ったりしました。


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