聖書ディボーション入門

ヨハネ 4:1-42

2014/10/02 20:18 投稿

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イエスとサマリアの女
4:1-3
イエスはエルサレムを去って北に向かってガリラヤを目指した。というのもちょうど宣教をはじめたばかりだったので、イエスに抵抗するパリサイ人などの宗教指導者と公に対決する時期ではないと判断したからである。

4:4
ほとんどのユダヤ人は南王国からガリラヤに旅するとき、サマリアを避けて遠回りしていく。それはサマリアを首都とする北王国がアッシリアの手に落ちた後、多くのユダヤ人はアッシリアに追放され、外国人が移住してきた(2列王記 17:24)が、これらの外国人を残されたユダヤ人の混血がサマリア人だったからである。南王国の純粋なユダヤ人はサマリア人を民族と国家を裏切った者と考えた。サマリア人はエルサレム神殿ではなくゲリジム山に礼拝所を設け、偶像崇拝していた。イエスはその様な偏見にとらわれることなくサマリアを通るルートの方が近かったので、サマリアに向かった。

4:5-7
ヤコブ(イサクの子)の井戸は、もともとヤコブが所有していた地所にあった(創世記 33:18-19)。普通は朝と夕方の2回、女が水を汲みにやってくるが、このサマリアの女はやましいところがあったため正午にきた。イエスは、この女の霊的な渇きを永遠に癒す新鮮で純粋な水についての驚くべき教えを語った。

4:7-9
この女は
  1. サマリア人だった
  2. 罪人として知られていた
  3. 公共の場にいた
ため、立派なユダヤ人男性で話しかける者はいなかった。しかしイエスは話しかけた。福音はすべての人のためにあるからである。

4:10
旧約聖書では、多くの詩が「人が水を渇望する様に神を渇望する」という表現がある(詩篇42:1/42:2, イザヤ 55:1, エレミヤ 2:13, ゼカリヤ 13:1)。神は、いのちの泉であり(詩篇 36:9/36:10, エレミヤ 17:13)。イエスは、神を求める人の渇きを永遠にいやすことのできる生ける水を与えてくださる。

4:15
女は誤解して、イエスが与える水を受けたら、もう毎日井戸に来る必要はないと思った。彼女がイエスの教えに関心を持ったのは、彼女の生活が楽になると思ったからである。しかしキリストは難題を取り除くために来られたのではなく、私たちの心を変え神の見地から問題に対処する能力を私たちに与えるために来られたのである。

4:22
「救いはユダヤ人から出る」とは、ユダヤ人のメシヤを通してのみ全世界に救いもたらされるということです。ユダヤ人によって地上の全ての民族が祝福されると神は約束された(創世記 12:3)。

4:24
「神は霊である」とは、神は1つの場所に制限される存在ではないことを意味する。神はどこにでも存在し、どこでも、いつでも礼拝することができる。重要なのは、どこで礼拝するかではなく、どのように礼拝するかである。

4:34
「食物」とは、イエスの霊的な食物である。それは聖書の学びや、祈り、礼拝に出席する以上のものである。

4:35
自分の家族や友人は信じようとしないといって、証人となることを辞退するクリスチャンがいる。しかしイエスは私たちのまわりには絶え間なく刈り入れの機会があることをはっきり示しておられる。人々は神のみことばを聞こうと待っているのだ。

4:36-38
イエスが差し出しておられる報酬は、イエスのために働く喜びと、新しい信者という収穫である。これらの報酬は、蒔くものと駆るものに同様にもたらされる(1コリント 3:5-9)。なぜなら双方が、新しい信者たちがキリストの御国に入るのを見ることで、共に喜べるからである。「他の人が労苦し」という表現は旧約聖書の預言者たちやバプテスマのヨハネを示している。

4:39
サマリアの女は、直ちに自分の体験を他の人たちに知らせた。彼女の評判にも関わらず、多くの人が彼女の招きを受け入れ、イエスに会うために出てきた。おそらく私たちのの過去には恥じる様な罪があるだろうが、イエスは私たちを変えてくださる。人々はその変化をみるとき関心を示すようになるのである。

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