聖書ディボーション入門

ルカ 15:11-32

2014/09/10 19:30 投稿

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放蕩息子の話である。

15:12
弟の財産の分け前は 1/3、兄の財産の分け前は 2/3 であった(申命記 21:17)。
多くの場合、父親が亡くなったときこれを受け取ったが、早めに財産相続し父親が身を引くこともあったが、ここで異例なのは、弟が分け前の分配指図をしたことである。これは一族の長としての父親の権威を傲慢にも無視する行為だった。

15:15-16
モーセの律法によれば豚(いのしし)は穢れた動物だった(レビ記 11:2-8, 申命記 14:8)。豚は食べることができず、いけにえに用いることもできなかった。穢れから自らを守るため、ユダヤ人は豚に触れることさえしなかった。ユダヤ人にとって豚にエサ(いなご豆)を与えるために身をかがめることは屈辱的であり、弟にとって豚が触れたいなご豆を食べることは信じがたいほどの不名誉だった。弟はどん底まで落ちぶれたのだ。

15:17
弟は反抗的で未成熟であり、思い通りに生きたいと思った。彼は最悪の事態を経験して、やっと我に返った。自分を救うことができる唯一のお方であるイエスに頼るためには、多くの場合、大きな悲哀と悲劇を必要とする。

15:20
父親は待ち続けた。相手は意思を持った人間だったが、もし戻ってくるなら迎える準備ができていた。同じ様に神の愛は変わらず、忍耐強く、喜んで人を迎える。神は私たちを捜し、応答する機会を私たちに与えてくださるが、強制はなさらない。この話の父親の様に神は私たちが目が覚めるのを忍耐強く待っておられるのである。

15:24
息子は自己中心のゆえに去っていったが、神の大きな愛は、罪人たちがどのような理由で、どのような状態でいなくなっても、彼に差し伸べられる。そして彼を見つけるのである。

15:25-31
兄は弟を受け入れることができなかった。私たちは、不信者が悔い改めて神に救いを求めるとき、天の御使いたちの様に喜ぶべきである。父親の様に、悔い改めた罪人を真心を込めて受け入れ、彼がキリストにあって成長できる様に、助け、励まそう。

15:32
兄はパリサイ人、弟は罪人をあらわしている。パリサイ人は罪人が神の国に歓んで迎えられることに腹を立てていた。パリサイ人はいけにえをささげ神のために多くのことをしてきたのに、自分よりずっと悪いはずの罪人が神の恵みの深さによって赦されると、腹がたってしまうのである。自分を義とし、他の人がイエスのもとに来ることを歓ぶことができないとしたら、私たちはパリサイ人と同じである。

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