こなごころ

こころこわれる

2018/01/19 00:36 投稿

コメント:1

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私の祖父は、真面目でしっかりした人だった。
私の祖母は、世話好きの優しい人だった。

子供の頃、仏壇の前で祖父の膝の上に座ってお経を聞いていた。
全然分からなかったけれど、お経の最後に仏壇の鐘を鳴らすのが楽しかった。

たまに、テレビを見ながら肩叩きをしてあげていた。
お小遣いに10円を貰って、それをこつこつ貯めていた。

今でもそうだが、私はお金には執着がないにもかかわらず、貯金するのが好きだ。
私にとって、それが頑張った証だったから。

祖母は私を連れて、よく近所を散歩してくれた。
近所のお婆さんには「可愛い」だの「また大きくなった」だのと毎度のように言われ、人見知りの私はいつも恥ずかしがって祖母の後ろに隠れた。

私は泣き虫だったから、姉にいじめられてよく泣いていた。
祖母はいつも私を庇ってくれた。



祖父は定年後は畑仕事をしていた。
実家の所有する土地は飛び地があり、祖父は畑の手入れをしに、時々農作業用の軽トラを運転することがあった。

ある日、祖父は軽トラのバッテリーをあげてしまった。
ライトを消し忘れてしまったせいだ。

それが二度、三度と続いた。

歳が歳だし、物忘れがひどくなってしまったのだろう。
畑のことは諦め、人様に迷惑をかける前に父は祖父の免許を返納させた。



ある日、祖父はコピー機を使って何かを印刷しようとしていた。
観察してみると、コピー機から出てきているのは真っ白な用紙ばかりだった。
どうやら、コピー機の使い方を忘れてしまったらしい。

それに気付いた祖母が声をかけると、祖父は少し声を荒らげ、印刷を諦めた。



家族が共有で使っているペンやハサミが無くなることがあった。
決まって祖父の部屋で見つかった。

こっそり元に戻しておいても、いつの間にか祖父の部屋に移動していた。



たまに新聞が切り抜きされていることがあった。
それも古新聞ではなく、当日の新聞だ。

祖父は新聞の中に自分の名前と同じ文字を見つけると、その周辺の記事を切り取っていた。
自分に関係する記事だと思っていたようだ。



いつからか、祖父は家族を名前で呼ばなくなった。
祖父が祖母を呼ぶときは「おい!」、祖母に声をかけられたときは「なんや!」と怒鳴った。

祖父は何か言いたいことがあっても思うように言葉が出ず、「あれ」を多用するようになった。
祖母は何が言いたいのか理解できず、二人はよく喧嘩するようになった。

私が止めようとしても、二人ともまったく聞く耳を持たなかった。

私は祖父母にはなるべく関わらないようにした。
勉強のストレス、部活のストレス、否応なしにくる反抗期のストレスに、祖父母に対するストレスまで抱えきれなかった。

祖父に対しては無視を決め込んだ。
下手に応答すると、こじれると思ったからだ。



ある日、祖母がガンで入院した。
すでに末期ガンで、余命は半年ほどと言われていた。
それは祖母自身には知らされていなかった。

祖母はよく「帰りたい、帰りたい」と嘆いていた。

何度か見舞いに行ったが、痩せ細っていくのが目に見えて分かった。
やがて身体もほとんど動かせなくなったが、声をかけたり手を握ったりすると、か細い声で返事をしたり頷いたりしてくれた。



祖父は時々、家の中で祖母を探し回るようになった。
深夜に徘徊することもあった。

祖父は鏡に向かって話しかけるようになった。
祖父の機嫌が悪い時は、鏡と喧嘩していた。



ある日、祖父は行方不明になった。

私がボソッと「あんな奴、帰ってこなくてもいいのに」とつぶやくと、姉に叱られた。
姉貴は普段実家にいないくせに、よく偉そうなことが言えたものだ、と思った。

警察や町の人の協力もあり、家から1kmほど離れたところで見つかった。

それからは、常に玄関に鍵をかけられるようになった。



祖父はアルツハイマー型認知症だった。

それでも、この時点では要介護認定を申請しても軽度と判定され、デイサービスなども受けられなかった。



祖父はあまり怒らなくなった。
というより、皆が怒らせないように気を遣うようになった。



祖父は自分で服を着られなくなった。
シャツを足に穿き、ズボンに腕を通そうとしていた。

母が介護するようになった。



祖父は自分でご飯が食べられなくなった。
箸の使い方が分からなくなったのだ。

母が介護するようになった。



祖父は自分で用が足せなくなった。
朝になると家中に糞尿が垂れ流されていることもあった。

母が介護するようになった。



祖父はもう家族が家族であるということなど理解できていなかった。

私は祖父のことを「糞を製造するだけの動く肉塊」と認識するようしていた。
そうでもしなければ堪えられなかった。

自分の心が壊れているのを感じた。

それでも、人を殺すより、自分が死ぬよりマシだと思った。

いずれ私より先に死ぬのだから、その時を待てばいい。
時間が解決してくれる。
それだけが支えだった。

母もそうだったのかもしれない。
母は毎日のように愚痴をこぼし、一人の時には叫んでいた。

いつか母が倒れてしまうのではないかと思えた。



再び要介護認定を申請すると、ようやく認定がおりた。
週に1~3日程度だが、デイサービスも受けられるようになった。

祖父は仕事に行くかのように、嫌がることなくデイサービスに行った。



ある日、祖母が亡くなった。
余命宣告は半年だったが、実際は1年ほどだった。

その日は雨だった。

私は病院へ向かう車の中で、大学に忌引き届を出さないといけないことばかり考えていた。

病室に入ると、叔母と従兄と姉が大泣きしていた。
私は居心地の悪さを感じて病室を出た。

父と母は病室の外で静かに涙を流していた。

私は病院の駐車場に降りしきる雨をぼーっと眺めていた。

私が泣くことはなかった。
我慢していたわけではない。
むしろ、少し肩の荷が下りたようにすら感じた。



祖母の葬式の日、祖父はニコニコしていた。
とても無邪気な笑顔だった。

叔母に連れられて棺の中の祖母の顔を見た祖父は、そのままよだれを垂らしてしまった。

「こいつはもう人間じゃないんだな」と改めて感じた。



ある日、祖父が入院した。

私が見舞いに行くことは一度もなかった。

私が次に祖父を見たのは、祖父の通夜の日だった。
入院してから間もなく亡くなったのだ。

気付けば、祖父に最初の異変が起きてから、もう10年が経過していた。

ようやく解放された。
嬉しかった。
飛んで跳ねて喜んだ。
人生で最も嬉しかったと言っても過言ではないかもしれない。

それからの私は、壊れた心の隙間を埋めるように人生を楽しんでいる。

コメント

nori
No.1 (2018/09/14 19:36)
なにか引き込まれる文章でした。
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