俺の棒銀と女王の穴熊〈6〉 Vol.12
やがて撮影会が終わり、最後のお客が満足げな笑顔で店を出る。営業時間が短くなってしまったのは不本意だったが、不満を抱える人はいなかったようだ。
「摩子、ありがとうね。御堂さんも無理な頼みを聞いてもらって」
「いやいや、楽しかったです。この店はホンマ居心地いいなー。今後とも贔屓にさせてもらいますよって」
「ふうん、だったら今から一局どうかしら」
気がつけば、出水が元の冷たすぎる眼差しに戻っていた。
「さっき言ったでしょ。紗津姫ちゃんの仇を取りたかったって」
「おいおい、そんなに神薙さんラブなんか。ま、あのおっぱいは万人を虜にするよなあ、春張くん」
返事はしなかったが、心の中では全力で頷いておく。
ともかく、出水は本気で御堂を倒したいらしい。このままバトルが勃発するのかと来是は背筋を震わせたが、御堂は大きく手を振った。
「やめとくわ。記念すべき初対局が野良試合じゃ、もったいないやん」
「そうよ、もうしばらく待っときなさい。これから先、いくらでも機会はあるわ」
高遠に諭されては、出水も黙って引くほかないようだった。溜息をつきながらどっかりと椅子に腰を下ろした。
「そういや出水さんは、ちょっとタイミング悪かったなあ。今度の新棋戦、女流3級は出場資格なしで。アマチュアの神薙さんは出るのに」
空気が微妙にならないように話題を転換させたつもりだろうが、せっかく消えかけた火に油を注ぐような発言である。出水のこめかみは固く強ばっていた。
「ま、お互い来年のお楽しみやね。そんときはお望みどおり、熱い戦いをしようやないの」
「ふん、私はそんな志の低い棋士じゃないわ」
「どーいう意味?」
「来年の今ごろ、私は少なくとも女流二段になっている。今年同様、出場資格はないから」
新棋戦の出場資格は、女流2級から初段まで。女流棋士は棋戦数が男性プロと比べて少ないため、なかなか勝てない棋士は何年もそのあたりでくすぶることになる。
しかしトーナメントで上位に食い込めば、一気に昇級昇段することができる。タイトル挑戦を果たせば、女流二段。出水はそのことを言っているのだ。
「そんなわけだから、新棋戦にこれといった思い入れはないの。紗津姫ちゃんの優勝を心から応援するだけよ」
「ああ、神薙さんなら充分チャンスはあるやろ。……けど、アマチュアに優勝をかっさらわれるのも、それはそれで問題やなあ。プロなのにだらしないって、非難囂々になるで」
「別にいいじゃない。勉強不足のプロに同情の余地なんてない。責められるのは当然だわ」
「出水さんは正論の鬼やな。とりあえずうちは、他の出場者が頑張るほうに期待するで。やっぱプロの意地っちゅうのを見せてもらいたいからな」
――こういう会話を聞けるのだから、ここのバイトには賃金以上の価値がある。
プロの空気に触れ、来是は無性に興奮してきた。
残された短い期間、どうすればさらに棋力アップを図れるか、幾度となく悩んだ。その答えが、目の前にある。
「出水さん、俺と対局してくれませんか」
「はあ?」
「言ってくれたでしょ、多少はマシになったって。ぜひ今の俺の実力、見てください!」
「冗談言わないでよ、どうしてあんたなんかと。私に何の得があるの?」
不愉快そうに目を細め、出水は突き放す。当然の答えだろう。女流3級の仮免とはいえ、出水はプロなのだ。何の対価もなくアマチュアを教えてくれるわけがない。
しかしプロに教わることこそ、上達への最速の道。引き下がるわけにはいかない。
「神薙先輩の秘蔵写真、どうですか」
「……さ、紗津姫ちゃんの?」
途端に乙女の顔になる出水。とっさに思いついた奇襲作戦だったが、来是は優勢、いや勝勢を確信した。
「出水さんのことだから、ブログの写真とかは全部保存してますよね?」
「当たり前じゃない! ほ、他にもあるっていうの?」
「未公開のが山ほどありますって!」
「くっ……! わかった、それで手を打とうじゃないの」
「出水さん、可愛いとこあるやない」
「神薙さんのことになるとね」
御堂と高遠は笑いを堪えるのに苦労していた。
さっそく両者、盤を挟んで席に着く。駒を並び終えたところで来是は切り出した。
「俺の先手で……平手でいいですか」
「大きく出たわね。角落ちじゃもうほとんど勝てないとは、紗津姫ちゃんから聞いてるけど。……いいわ、本気でやってあげようじゃない」
「お願いします!」
いつもより気合いを入れて挨拶すると、来是は勢いよく角道を開く。対して出水も角道を開き、来是はノータイムで飛車先を突く。
すると出水は、腕組みして何やら考え込んだ。
「……よし、たまには私も」
そして彼女が選んだのは――△4四歩。すなわち角道を再び閉じた。
「おーおー、まさか名人戦の再現か?」
脇で見物している御堂が嬉しそうな声を出した。
そう、ノーマル四間飛車の出だしだ。豊田八段は伊達名人に完敗したが、私は余裕で打ち負かしてあげる。そんな意思表示だと来是は受け止めた。
来是は瞠目するとともに、歓喜した。彼女は自分の事情など知る由もないのに、こうも都合のいい展開になるとは、将棋の神様に全力で感謝したい気分だった。
――そして、今度は出水のほうが驚くことになる。
「あんた、本気なの?」
出水は豊田八段同様に、いち早く玉を隅に移動させ、穴熊に潜った。対して来是は、急げ急げと銀を繰り出しにかかった。
【図は▲4六銀まで】
通常、棒銀は右の銀を用いるが、これは左の銀を斜めに繰り出すことから、斜め棒銀と呼ばれる。
どちらの棒銀も、甲乙付けがたい魅力がある。右から左から、変幻自在の速攻を仕掛けられる。指すたびに、熱い向かい風が体を吹き抜けていくよう。他の戦法では決して得られない快感だった。
「はは、穴熊相手に棒銀か! 春張くん、男やね」
「そんなスッカスカの玉で、勝てるつもり?」
「出水さんこそ、穴熊は未完成じゃないですか。それ以上固くさせませんよ」
「うーん、プロ間じゃ、もう天然記念物レベルの形ね。それほど勝ちにくいってことだけれど……。アマ同士ならともかく」
長いプロ経験を持つ高遠の目にも、一見して危険な戦法なのだろう。今回の名人戦のように、振り飛車側が穴熊なら、居飛車側も穴熊。固さを互角にして持久戦にすれば、落ち着いた戦いができる。
しかし来是は、落ち着いてなどいられなかった。何よりもスピードだ。――俺の恋の道は、将棋は、一瞬たりとも立ち止まってはならない!
次第に出水は、小考を挟むようになった。来是の宣言どおり、それ以上穴熊を固くすることができず、中途半端な陣形のままだ。来是の玉も薄いが、うかつに攻めては反動がきつくなる。
アマチュア相手とはいえ、しっかり読みを入れて指さなければ。そう思わせることに成功したのだ。まずは上出来と言えそうだった。
「ええ勝負になっとるやん。驚いたわ」
「春張くん、相当この戦法を勉強したのね。反対に摩子は、あまり経験なさそうね?」
「……こんな戦い方する人、道場にも研修会にもほとんどいないわよ」
高遠がサービスしてくれたジュースにも手をつけず、来是は盤面に没頭する。定跡書でさまざまなパターンを頭に叩き込んできたとはいえ、さらに千変万化するのが実戦というもの。自力で優る出水相手に、一度でも悪くしてしまえば逆転は望めない。
――その懸念は的中する。
「甘い!」
峻烈な言葉が突き刺さる。ここまで互角に推移していた局面が、出水の言葉どおり甘い手を指してしまった瞬間にひっくり返った。彼女はノータイムで急所に駒を放ち、来是の脆い城壁を一気に破壊しにかかった。
「ぐぬ……まだまだ!」
来是は防御の立て直しに全力を注いだ。激しい攻めをシャットアウトしようと、持ち駒を次々投じる。だが出水は、そんなものは通用しないと容赦ない攻撃を繰り返す。詰めろがかかるまで、時間はかからなかった。
これ以上はもう粘れないと悟り、来是は潔く頭を下げた。
「見ごたえあったわー。中盤まで完全に互角やったよ」
「摩子相手に、ここまでやれたんだもの。すごいわよ春張くん」
御堂と高遠は健闘を称えてくれるが、もちろん出水は優しい言葉などかけてはくれない。
「これがあんたの実力。私はもちろん、紗津姫ちゃんにだって通用しないわ」
ああ、そのとおりだ。まだまだ先輩とは隔たりがある。さっきの甘い手だって、先輩ならば絶対に見逃さなかっただろう。だが――。
「……戦法自体は、悪くはないですよね?」
「……さあね。それじゃ私はこれで。紗津姫ちゃんの写真、早く送りなさいよね。アドレスは葉子さんに聞いて」
出水は荷物を抱え、さっさと店を出てしまった。やっぱりそう簡単には認めてくれないか……と思っていると、高遠がかすかな笑いを漏らした。
「どうやら、あなたのことを見直したみたいよ? ちょっとだけ」
「そうなんですか?」
「あの子としては、作戦自体が間違いだったって突きつける勝ち方をしたかったはずよ。でもそれはできなかった。勝ったはいいけど、納得はしていないわね」
「うん、あそこで緩手を指さなかったら、まだまだチャンスはあった。決して作戦負けやないで。よかったら、うちと検討してみるか?」
「……あ、ありがとうございます! でも、いいんですか?」
「時間は大丈夫よ。納得いくまで並べてみなさい」
来是は幸運を噛みしめる。プロがここまで親身になって、自分の将棋の後押しをしてくれるとは、一月前は想像すらできなかった。
これからも決して迷うことはない。俺の道は、間違いじゃない。
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