br_c_1403_1.gifbr_c_1752_1.gif

     ☆

「そうですか、摩子ちゃんも大盤解説会デビューですね」
 紗津姫と図書室で出会ったのは、幸運な偶然以外の何物でもなかった。
 中間テスト期間に入り、しばしの部活禁止。だが家に帰れば将棋盤が誘惑してきそうなので、期間中は下校時刻まで図書室で勉強しようと決めたのだ。聞けば、たまたま彼女も同じ考えだったらしい。
「よかったら先輩もお店に来ませんか? あの人も喜ぶと思うし」
 紗津姫がいれば、出水の冷たい眼差しも大幅に和らぐだろう。しかし彼女はすまなそうに首を振った。
「その日はちょっとした計画を立ててまして」
「計画?」
「一年の子たち相手に、部室で解説会をしようと思うんです。せっかくうちにも大盤があるんですから」
「……ああ、そうですよね。有効活用しなきゃ」
 新年度になって彩文将棋部は格段の充実を遂げてきたが、中でも大盤の導入は自慢だった。初心者向けの指導にとても役立つし、解説会も開ける。
 その大盤は閉鎖することになった将棋クラブから譲り受けたものだ。そこは少年時代の伊達名人が足繁く通った場所で、席主は今も伊達と交流があった。処分するよりは誰かの役に立ってほしい……そう考えた席主が伊達に相談したところ、じゃあうちのアイドルに、となった次第である。
「一年、きっと喜びますよ。内容が高度すぎて、よくわからないかもしれないけど」
「そこをなんとかわかりやすく伝えるのが、解説者の役目ですよね。摩子ちゃんもお話するのは上手ですから、きっと成功しますよ」
 聞こえるのは自分たちの小さな話し声だけ。部活が休みで早く帰れるありがたい期間、わざわざ図書室で勉強しようという生徒は少なく、ほとんど貸し切り状態だった。
 それに、いい匂いが鼻腔をくすぐる。好きな人と隣り合っての勉強は、いつにもましてはかどった。
 ふと、紗津姫の広げているノートを覗く。まるでパソコンのフォントのように均整の取れた文字。彼女の手は素晴らしい棋譜だけでなく、美しい文章も紡ぐ。しかし書かれている内容はさっぱりわからない。
「俺、英語は苦手なんですよね」
「私は最近、英語に力を入れてるんです。学校の勉強だけじゃなくて、英会話のレッスンも本格的にスタートして。オンラインでやってるんですけど、すごく便利です」
「それってやっぱり、将棋の海外普及で?」
「いずれ海外に連れて行くからって、伊達先生がおっしゃってるんです。卒業するまでに、ある程度話せるようになりたいなって」
「先輩はきっと、海外でも人気出ますよ。なんたってアイドルだし、それに……」
 制服ではとても抑えきれない、彼女の豊満な部分に目が移る。恥ずかしくなってすぐにそっぽを向いたが、思わぬことに追撃を仕掛けられた。
「それに、なんでしょう?」
「え、いや」
「はっきり言ってくれないと、わかりませんよ」
 ……こんな搦め手を弄するような人だっただろうか。まさか依恋に感化されたわけでは。彼女の些細な変化を歓迎していいものかどうかわからなかったが、とりあえず当たり障りのない表現に落ち着くことにした。
「せ、先輩はすごくスタイルがいいってことです」
「ありがとう。好きな子にそう言ってもらえるの、やっぱり嬉しいですね」
 目と耳が、一瞬遠くなる。勉強に集中するためにわざわざ図書室まで足を運んだというのに、これでは完全に逆効果だった。
「あ、ああ、そうだ、英語わからないとこあるんで、教えてくれませんか」
「いいですよ。二年生の内容を復習するのもよさそうですし」
 なんとか勉強モードに戻って、来是は苦手な英語に取り組む。
 紗津姫の教えは的確で、普段以上に理解できているのを感じた。やはり人に何かを教えることに向いているのだ。外国でも言葉の壁を越えて活躍できるに違いない。来是は彼女の輝かしい未来を想い、暖かい気持ちになった……。
「そうだ、棒銀を英語でなんていうか、知ってますか?」
 唐突な問いかけに、来是はしばし首を捻る。
 考えてみれば、将棋の海外普及にあたっては専門用語の翻訳が必要だろう。そのままボーギン、ではどうしようもあるまい。
「直訳して、ええと……スティックシルバーとか?」
「惜しいです。クライミングシルバーが正解で」
「ロッククライミングとかの?」
「ええ、銀がぐんぐん上っていくからでしょうね」
 なるほど、棒銀は一直線に前に進むと思っていたが、上っているとも言える。最初に訳した人は素敵なセンスの持ち主だなと感心した。
「必殺技みたいな響きで、カッコいいですね」
「来是くんなら、できますよ。クライミングシルバーを必殺技に」
 その微笑みは、少年の胸に高揚の風を呼び込む。
 愛する人から期待される。これほどの幸せがあるだろうか。
「ちなみに穴熊はそのまんまで、アナグマキャッスルらしいです。なんだか可愛いですよね」
 可愛さと凶悪さは紙一重。紗津姫が口にすると、なおさらそう思う。