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「大熊くんはねえ……本当にいいやつなんですよ。名前はものすごく、いかついのにねえ。悪い噂なんか聞いたこともない。こう言ってはなんですが、勝負師に向いてないってくらい、優しいやつなんです。たとえば……」
兄弟子しか知らない大熊のエピソードを、山寺は淡々と語っていた。聞き手の師村をはじめ、ニッコファーレの観客たちは水を打ったように静まりかえり、頬を紅潮させて語るA級棋士に見入っていた。
来是も大熊ファンとして、彼の話を一言も聞き漏らすまいとしていたが、次第に悲しくなってきた。
人柄も人望も、勝負には無関係。強ければ勝ち、弱ければ負ける。大熊は、後者だった。
「彼が苦労してようやくプロになれたとき、もちろん嬉しかったんですが、本当にこいつがこの過酷な世界でやっていけるのかなって、考えたりしましたよ。……弟弟子とはいえ、プロ棋士ってのは、自分以外はみんなライバルですからね。彼が引退の危機に陥ろうが、私自身には何の関係もありません。……そう思っていたんですが、このね、身を削るような戦いをしている姿を見ていると、やっぱり彼も立派なプロだと再認識しました。まだ引退するには早いって、心から思います」
「大熊五段のファン、ものすごく増えていますよね……」
「負けて注目を浴びるなんて、棋士にとっては本来不名誉です。でも、こんな棋士は、今後現れるかどうか。まさに記録よりも記憶に残るってやつです。まだまだ現役として活躍してほしい。この電将戦にも勝ってほしい……ですが」
現局面は、もう検討するところがなかった。先ほど、紗津姫が不安そうな顔をしていた理由。千日手指し直しにより、大熊は次は後手を持つことになる。全神経を注いで築き上げた万里の長城が、崩れ去る。また一から作り上げることができるのか。そんな保証はどこにもなかった。
そもそも大熊がこの作戦を採るかぎり、永遠に決着はつかないのではないか。だとしたら「正攻法」で戦うしかない。正確無比なコンピューターの攻めと受けを、人の身でかいくぐらなければならない……。
「大熊五段、打開するでしょうか? 山寺九段だったら、どうしますか?」
「うーん、そもそもの構想が、自分からは攻めないというものですからね。私だったとしても、打開はしづらい」
「千日手ですか……」
「ですね。大熊くんとしては、この上ない展開になっただけに、指し直しは辛すぎるでしょう。私はソフトには全然詳しくないんですが、千日手を選ぶ機能があるんですねえ……」
そのときだった。
〈ていうか引き分けじゃね?〉
ディスプレイにニッコ動ユーザーの書き込みが流れる。同じようなコメントが次々と。師村がポカンと口を開ける。
「あれ……え? 引き分けってなんでしょう?」
すかさずスタッフが、ルールを記載した資料を持ってくる。師村はそれにじっくりと目を通し、声音を強ばらせた。
「十六時を過ぎて千日手になったら……指し直しではなく、その時点で引き分けとあります」
「えええ? 本当ですか?」
山寺も仰天している。〈マジで知らなかったの?〉〈ルールくらい把握しとけw〉とツッコミが殺到した。
だが、ルールの隅々まで理解している視聴者は一部だけだろう。来是にとっても青天の霹靂だった。
「え、依恋、今何時だ?」
「……もうすぐ、十六時よ」
引き分け。指し直しをせずに、そのまま決着。
勝てはしない。だが、負けもしない……?
「ちょっと待ってください。大熊くん、そのこと頭にあるんでしょうか……?」
「わ、わかりません。……あっ、瀬田さんが何か言いましたよ。千日手の規定はどうなのか、と言ったんでしょうか?」
観客席がざわめいてきた。意気消沈していた来是の心臓は、激しく高鳴りを始めた。
もし引き分けになれば、団体戦としても引き分けになるということだ。
悲願の勝ち越しは果たせないが、負け越しよりもはるかに価値があることは、論じるまでもない――。
ディスプレイに立会人が映し出された。千日手の規定について説明をしている。
その瞬間、大熊の表情は形容しがたいものに変わった。
それは何を意味しているのか。負けなくて済むという光明が見えたのか、それとも――引き分けを選ぶことの葛藤か。
「あ、伊達名人?」
師村が驚きの声を上げたかと思うと、何の前触れもなく控え室にいたはずの伊達が現れた。川口と、ゲストとして出番は終わったはずの紗津姫も伴って。
「緊急事態のようなので、ちょっと予定変更で。とはいえ、こういう展開もあるかと思っていました」
「名人は、引き分けを予想していたと? いつから?」
「▲4八玉のときからですよ」
訝しそうな山寺。しかしこの男の目は、未来を見通すとも言われる。本当に最初のうちから、引き分けの可能性を考えていたのだろう。
「あ、あと一分です……」
川口が腕時計で確かめた。十六時を回ってから、大熊が▲5八金と指せば――この勝負は引き分けで終わる。再戦は、ない。
「神薙さんは千日手の可能性が見えて、ちょっと不安そうだったけれど?」
伊達の問いに、紗津姫は神妙な顔つきで頷いた。
「指し直しになったら、大熊先生には厳しいと思っていました。……恥ずかしながら、私も十六時以降の引き分けについては、失念していまして、ちょっと今は、気持ちの整理がついていなくて……」
「ほとんどの人がそうだと思いますよ。人間が勝つか、コンピューターが勝つか、その二択しか考えていなかったはずですから。……それで、神薙さんはどうなってほしいですか? 残り三十秒くらいですが、大熊さんが打開する可能性は、まだある」
来是は疑念を持った。そんな質問に何の意味があるのか? 引き分けで充分ではないか。コンピューターに勝てはしなかったが、負けもしなかった! 今となっては、これが望みうる最高の結果だ。この会場の全員が、中継を見ている全国の将棋ファンがそう答えるはずだ。紗津姫の答えも同じはずだ――。
「もう……戦わなくていいじゃないですか」
紗津姫の目元に、綺麗に光るものが浮かんでいた。
来是も初めて見る、愛する人の涙。
「人間と機械は、もう……戦わなくていいです。手を取り合って、未来に進んで……すみません、何を言っているのか……お見苦しいところを」
会場は今日一番の静けさで満ちた。ディスプレイを流れるコメントも勢いをなくす。来是は胸にこみ上げるものを感じながら、紗津姫の言葉を胸の中で反芻する。
もう戦わなくていい。それがこの電将戦ファイナルの回答――。
「大熊、金を下げろ!」
山寺が叫んだ。その叫びに呼応するように、大熊が今一度、盤に向かった。小さく呼吸した。それから、あらゆるプレッシャーから解放されたかのような、穏やかな笑みを作った。時刻はすでに十六時を回っていた。
震えのない手つきで、▲5八金。
千日手、成立。
【終局図は▲5八金まで】
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