俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~史上最躍の棋士~ Vol.7
やがて開会の時間となり、控え室にも将棋ファンであふれる会場の熱気が伝わってきた。サプライズの大熊は、他の出演者とは遅れて登場することになっている。ひとり残って、じっと合図を待った。
大熊はつくづくこの状況が不思議だった。順位戦の制度上最短での引退の危機。そんな不名誉を得たからこそ、このような華やかな催しにお呼びがかかったのだ。
今年の春先、負けて得るものがあるという趣旨の新書を、さるベテランの棋士が出版した。大熊は個人的にその棋士を尊敬しているので発売日に買ったが、現役で最多の敗戦数を誇るその人の言葉だから、響くものがあるのだろうと思った。将棋界は負けたら終わりのトーナメント戦が大多数。挑戦者決定リーグ戦やタイトル戦の番勝負に数多く出場しなければ、そもそも黒星を重ねる機会を増やせない。つまりその棋士は、多く負けてはいるがそれ以上に勝っているのだ。敗北を糧に、トップを走り続けた人なのだ。
一生懸命やった結果なのだから、敗北はなんら恥ずかしいものではない――中堅の仲間入りをした程度の、ましてフリークラスの自分が同じことを語ったところで、説得力はないのではないか。大熊はその本を読んだ直後は、そう思っていた。
しかし今、ちょっと前までは想像もしなかったほどの注目を集めている。他の棋士にはないものを得た。まったく人生というものはわからない。
着信メロディが鳴った。発信者は伊達清司郎。これが登場の合図だ。
「もしもし?」
「あ、大熊大吾さんですか?」
実にわざとらしく聞いてくる。その途端、わああ! と電話の向こうから歓声が聞こえた。伊達流の演出は見事成功したらしい。大熊は思索を中断して、サンタ帽を忘れずにかぶってから控え室を出た。
自分でも緊張しているな、と自覚しながら会場に足を踏み入れると、予想をはるかに超える数の将棋ファンが目の前に集結していた。
「大熊大吾五段です。拍手でお迎えください!」
伊達の景気のいい声、そして盛大な拍手が響く。よりはっきりと感じられる熱気に、顔の温度が上昇した。
「クマさーん!」
若い女性の声が飛んできた。それも複数。女性からこんな風に声をかけられたことなんて、記憶のデータベースを検索してもまったく前例がなかった。未知の局面だった。
「やっぱりすごい人気ですね。大熊さんを誘うという僕の選択は間違っていなかった」
すごい人気。いったい誰のことだ?
「大熊さん、それじゃあ一言」
「あ、ああ」
緊張したまま、マイクを渡される。さっきまでの歓声もピッタリ止んで、一斉に視線が集中した。そういえば挨拶の言葉をまったく考えていなかった。
「えー、みなさん初めまして、大熊です。普段は高知に住んでいるので……なんというか、こういう華やかな場にはまるで縁がないんですが、ファンのみなさんを楽しませられるよう、精いっぱい努めたいと思います。よろしくお願いします」
無難にもほどがある挨拶になってしまったが、再び盛大な拍手が送られて、目頭と胸が熱くなった。将棋ファンとはこれほどまでに優しく、ありがたいものだったのか? 地方暮らしのフリークラス棋士には、たまらなく刺激的で新鮮な光景だった。
パーティーはいよいよ本格的にスタートした。立食形式で、参加者は皆にこやかな笑顔で棋士、女流棋士たちと交流している。普段は携帯中継やニュースでしかわからないプロの素顔に、こうも間近で触れられる。やはり一番人気は伊達名人で、女性たちがポラロイドカメラの撮影会に殺到していた。
その次に人気なのは、将棋アイドルの神薙紗津姫。こちらは男性が圧倒的に多いようだ。遠目に眺めていても、彼女がそつのない対応をしているのがわかる。まだ高校生なのにたいしたものだった。
自分と写真を撮りたがる人は、まあそんなにいないだろう。そう思っていたら……。
「大熊先生、頑張ってください!」
「私は会社で辛い思いをしてるんですが、先生の戦う姿を見て、元気が出てきたんです」
「先生の対局を中継しないなんて、本当にもったいないですよ!」
すごく多かった。同じ年頃の男性が中心だが、女性もかなりいた。大熊はぎこちない表情にならないように精いっぱいだった。
ファンたちは自分の将棋についても、驚くほど知っていた。先日伊達を打ち負かした一戦についても、道場じゃいつも右四間飛車にやられるけどプロはしっかり受け切ってすごいとか、決め手の金捨てが素晴らしかったとか、熱っぽく語ってくれるのだ。たまたま世間の注目が集まっているからではない、きちんと将棋の内容も見た上で、交流したいと思ってくれている。「観る将」という言葉が浸透しつつあるが、将棋棋士としてこれほど嬉しい存在があるだろうか。
そうこうするうちに、今度はふたりの少年少女がやってきた。
「は、はじめまして! 春張来是といいます!」
「もう、そんなに気合い入れなくたっていいでしょ」
イブニングドレスを着飾った少女のほうには見覚えがあった。彩文将棋部のブログでちょくちょく出ている。となると、この男子が……。
「君が、貯金を崩してまで来てくれたっていう神薙さんの後輩?」
「え? あ、はい、そうです! この前から、大熊先生のファンになりました! 予告もなく登場して、さっきはすげービックリしました」
目がキラキラしている。プロの厳しい世界に浸りきってしまった自分には決して作れない、純粋な眼差しだった。
「ありがとう。でも僕が出ることは知らなかったわけだから、もともと他にお目当てがいたのかな。やっぱり名人あたり?」
「えーと、あの人じゃなくて……」
「来是もあたしも、紗津姫さんのアイドルぶりを見に来たんです。でもあの調子じゃ、ろくに話す暇もなさそうで」
「そうか。君も高校生にしては、ずいぶん立派なドレスだね」
「ったく、依恋は目立ちたがりなんだから……」
「全力でオシャレしないと、紗津姫さんに負けちゃうじゃない」
「こんなところでまで勝負するなよ」
「はは、仲がいいね。もしかしてカップル?」
軽い冗談で言ったつもりだったが、少女のほうがちょっと赤くなった。
「あ、あら、そういう風に見えます?」
「ちょ、そんなんじゃないですから!」
若いっていいな。親父臭いことを考えながら、どう見ても仲がよさそうなふたりと写真に写る。いつまでも、この子たちにとっての記念の一枚であるように願った。
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